昭和53年、ドラフト前日の11月21日、午前9時30分。東京・平河町の全共連ビルの記者会見場には、テレビ局のカメラが十数台並び、約200人の報道陣が詰めかけた。
緊張した表情でマイクの前に座っている江川。その横で巨人の正力オーナーが手に持った「声明文」を読み始めた。
「ええ、ただいま、巨人軍は江川君と契約いたしました」
まばゆいばかりのカメラフラッシュが一斉に光を放った。だが、誰も驚かない。実はこの〝電撃契約〟の情報を報道陣はすでにつかんでいたからだ。
「巨人軍からあす朝、記者会見を開くという連絡がありました。何か重大な発表があるようです」
幹事社から各新聞社へ通達があったのは11月21日の午前3時前。非常識な時間帯での「連絡」に東京の編集局は騒然となった。巨人担当だけでなくほとんどの記者がデスクにたたき起こされ、真夜中の街へ取材へ走った。
誰もが即座に江川との「契約」だと直感したという。でも、どうやって? いつ工作したのか―。夜が明けるころにはほぼ全貌が分かってきた。
江川が帰国した11月20日の深夜、日付が21日に変わった午前0時2分、巨人の長谷川代表宅に船田事務所の蓮実秘書から電話が入った。
「20日をもって西武との交渉期限が切れました。そこで江川君のことで話し合いたいと思います。すぐにホテルへ来てもらえますか」
この時点ではまだ長谷川代表は〝電撃契約〟のことは知らなかった―という声もある。真実は分からない。
午前0時40分、東京・紀尾井町のホテルニューオータニに長谷川代表が到着。蓮実秘書や顧問弁護士が「空白の一日」を使っての江川獲得作戦を明らかにする。
本当にそれで大丈夫なのか。野球協約上の問題点はないのか。法律的には? 当然、機構挙げての反対にあうだろう。そのときは―と、多くのケースを想定して話し合われた。この間、長谷川代表は2度、正力オーナーに電話をかけている。それは、もしものときにはリーグを脱退し新リーグを作る―という「決断」の了承、確認だといわれている。
すべての準備が整った午前2時30分、報道陣の担当幹事社へ「緊急記者会見」の連絡を入れたのである。(敬称略)