モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

(149)寛容と不寛容の間 私的「大江健三郎論」

3日に88歳で亡くなった作家の大江健三郎さん=平成23年4月
3日に88歳で亡くなった作家の大江健三郎さん=平成23年4月

電話ガチャ切り

作家の大江健三郎さんが亡くなった。別のテーマで書く準備をしていたが、それをうっちゃってでも書かざるを得ないと感じた。

ざっくりと言えば、憲法第9条に象徴される「戦後民主主義」を問い直そうとする産経新聞と、それを擁護しようとする大江さんは「敵対関係」にあった。

それがもっとも先鋭的にあらわれたのは、旧日本軍が集団自決を命じたとする大江さんの『沖縄ノート』や、自虐史観を克服しようとする「新しい歴史教科書をつくる会」が作成した教科書、さらには原発をめぐる問題だった。

そのあおりを食ったのが産経新聞文化部の女性記者だった。「談話をいただこうと大江さんに電話をかけたんですよ。本人が出たので、『産経新聞のAと申します』と名乗ったら、いきなりガチャンと切られてしまいました」と彼女はぼやいていた。ビールをチェイサーに大好きなウイスキーでも飲んでいたのかしらん。そうそう、その彼女が原稿を依頼しようと電話をかけると、「なぜ自分が産経ごときに書かなければならないのか」と言い放ったという某大物作家(故人)に比べれば、ガチャ切りのほうがはるかに潔いようにも思えるが、失礼な対応だ。そもそも「作家で円満な人格者」というのは、ある種の語義矛盾なのだ。

面白かった初期の作品

学生時代は懸命にミエを張った。知的に成長するためにミエは必要不可欠だったからだ。議論のなかで、読んでもいない本をさも読んだように語り、その直後にあわてて読むという行為を繰り返した。45年も前のことだ。

本棚は「自分はこのような人間である」と他者に示すショーケースだった。そこに欠かせなかったのは、昭和41年から42年にかけて新潮社から刊行された『大江健三郎全作品』(全6巻)と、同じく新潮社の「純文学書下ろし特別作品」シリーズだった。

その当時から、大江さんは神格化されており、初期の全作品をまとめた6巻を読んだうえで、新刊を読まなければ、文学部の学生としてのレゾンデートル(存在理由)を問われたのだ。

じっさい大江さんの初期短編小説は面白かった。グロテスクな想像力とこれまたグロテスクなユーモア、晦渋(かいじゅう)な言い回し、そして何よりも、作品の底に流れる、アメリカの従属国たる戦後日本のありようへの強烈な違和感と、その体制がもたらす退屈な日常を、性と政治の止揚によって破壊したいという衝動は、背伸びをしたい学生にとってとても魅力的に感じられた。

いま思うに、右翼少年・山口二矢(おとや)による浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件を題材にした『セヴンティーン』とその続編である『政治少年死す』は、その心情において、昭和45年に自死した三島由紀夫さんに通じるところが間違いなくあった。後年(平成30年)、この作品をめぐって、読売新聞のインタビューで83歳の大江さんは、みずからを「戦後民主主義者」と規定しながらも、執筆当時(昭和36年)は、天皇を崇拝することで自己を安定させようとした右翼少年の心情に寄り添った作品を書きたいという、矛盾した思いがあったという趣旨の発言をしている。この矛盾した思いこそが、作品にパンクロック的なすごみを付与したのだろう。

39年、わが子が障害を抱えて生まれた体験をもとに書いた『個人的な体験』で大江さんの作風は大きく変わったように思う。苦悩と葛藤と逃避の迷路をくぐり抜けて、障害を抱えたわが子と生きていこうと決意するまでを描いたこの作品は、そのハッピーエンド的性格から、「戦後民主主義者」として、退屈な日常を生きる決意宣言のようにも読めるのだ。『セヴンティーン』を書いたころの自分との決別である。俗な表現をするなら、とがった青年は平凡な大人になってしまった。この体験がなければ、大江さんはまったく別の作家になっていたはずだ。

54年に新潮社の「純文学書下ろし特別作品」として『同時代ゲーム』が刊行されたが、私は途中で読むのをあきらめた。神話、民俗学、文化人類学、さらにはコロンビアのノーベル賞作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスの「魔術的リアリズム」などから得た知見と手法を注ぎ込んだこの大作は、私の理解能力をはるかに超えていて、読むことが苦行になったのだ。それ以降、大江さんの作品はほとんど読んでいない。

渡辺一夫から受け継いだ「寛容」

《そして僕は熱望した。このような学者に学び、このように考えうる人間となり、このようなことを表現する文章を書きたい…… 森深い谷間で戦中と戦後の民主主義時代をすごした少年は、漠然とながらその環境で働く方向に勉強することを思っていた》

この一節は、フランス文学者、渡辺一夫さんの『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫)の解説から抜き出したものだ。大江さんは渡辺さんにあこがれ、愛媛県の松山東高校を卒業後、一浪して東京大学に入り、渡辺さんの弟子となった。

大江さんのグロテスクな想像力とユーモアは、もちろん生来のものでもあるだろうが、渡辺さんが専門としたフランス・ルネサンス期の人文主義者、ラブレーに由来するように思う。大江さんはそれ以上に、渡辺さんから大切なことを学ぶ。寛容の精神だ。ただ、寛容には陥穽(かんせい)がある。「もし社会が無制限に寛容であるならば、その社会は最終的には不寛容な人々によって寛容性が奪われるか、寛容性は破壊される」というパラドックスである。それでも渡辺さんは、不寛容に対して不寛容となるのは「寛容の自殺」だと主張するのだ。

「戦後民主主義者」を自任する大江さんの政治的言動は、こうした師の教えを受け継いだものだろう。ただ、産経新聞に対するように、自分と意見の異なる者には容赦ない不寛容を貫いた。「敵」との対話の回路を自ら断ち切ろうとするがごとく。結局、自分と考えを同じくするサークルのなかで神格化されれば、それで満足できたのかも、と邪推してしまう。そしてかつてのファンとして残念に思うのは、その政治的発言から、作家、大江健三郎の特質であったナイフのように鋭利な感性が失われていたことだ。小説については、読んでいないため分からない。

大江さんは、解説で渡辺さんのこんな言葉を紹介している。

《また「手」こそ、「理性」と「言葉」とだけにたよる人間の陥るかもしれぬ観念主義を修正する有力な武器ではないだろうか?》

「手」とは触れることであり、対話することだ。大江さんの政治的発言に私は「手」を感じることができなかった。死者にムチ打つようなことを書いてしまったが、その罪滅ぼしに、大江さんの近年の小説を読んでみるつもりだ。ご冥福をお祈りします。

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