“中国のシリコンバレー”とも呼ばれる北京市の中関村。その歴史を中国の小説家が読み解いた書籍が、このほど刊行された。過去40年にわたって中国の研究者や企業がいかに政府の規制を押し広げ、中国経済と文化の開放、テクノロジー産業の発展に貢献したかを、この本では伝えている。
小説家の寧肯(ニン・ケン)が初めて北京の中関村地域を目にしたのは、14歳だった1973年のことである。中国の歴代皇帝が保有していた庭園で、アヘン戦争で欧州の軍に奪われた頤和園を修学旅行で訪れたときのことだ。
「当時の北京は、動物園を過ぎると田園と畑が広がっているだけの場所でした」と、バスで北西に向かったときのことを振り返る。窓の外に広がる畑の先に、中国における核開発や水力発電のダムを生み出した国内で最も権威のある研究機関のキャンパスが見えた。そこに中国科学院、北京大学、清華大学などが位置している。
いまやこの道路は、中国のテクノロジー産業の中心地だ。地下鉄の駅のほか、中国や欧米のハイテク企業が入居するガラス張りの高層ビルが立ち並ぶにぎやかな地域になっている。
この地域の変貌は、過去40年間における中国の経済と文化の劇的な変化を表している。中関村から生まれたハイテク企業は、規制当局の一歩先をいくことで企業活動の限界を押し広げ、海外で中国の力を示す存在となったのだ。
欧米における中国のハイテク産業の取り上げ方は、政府による規制や管理体制に焦点を当てたものが多い。中関村の革新者たちは、中国政府の制約が一時的に緩んだ時期に起業の道を切り開くことで、完全な国営経済の厳しさから中国国民を“解放”することに貢献したのだと、寧は語る。
中関村に最初のハイテク企業が設立された1980年代初頭は、国がすべての産業を所有していた。住むところから結婚相手にいたるまで、人々の生活のあらゆる面は、所属する団体である「単位」によって決められていたのだ。王洪徳という起業家が1982年、数人の同僚とともに中国科学院の研究職を離れてIT企業を立ち上げたとき、「古い体制に亀裂が走った」と、寧は言う。
それから2世代が過ぎた中関村と中国のほかの地域は、かつての面影がないほどに変わった。人々は富を求め、1980年代初頭には考えられなかった方法でキャリアを変えられるようになったのだ。
中関村のソーシャルメディア企業のおかげもあり、ボトムアップの圧力によって変化が素早く起きる余地がまだあることを、最近の出来事は示している。国内の各都市で極端なゼロコロナ政策に反対する抗議デモが発生したのは22年11月下旬のことだ。それからまもなく、3年間の新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)を経ても永久に続くと思われた規制が緩み、中国は活動を再開したのである。
“赤信号”を無視して進められた革命
北京出身の寧は、これまで中国で高く評価された小説をいくつか発表している。今回の中関村の歴史をたどるノンフィクション作品(中国での原題は『中関村筆記』)が、初めて英語に翻訳された作品だ[編註:邦訳は『中国シリコンバレーの先駆者たち』]。
本書は、鄧小平による改革開放政策が始まったばかりの1970年代後半から、検索大手のバイドゥ(百度)やTikTokの親会社であるバイトダンス(字節跳動)といった中国のハイテク企業が活躍する好景気に沸いた最近までの、この地域で誕生して中国のハイテク産業を築いた起業家や学識者たちを紹介している。
寧が取り上げた人の多くは、中国の国外ではあまり知られていない。だが、それぞれの物語は、中関村の起業家たちがいかに制度のなかで工夫したり規制を回避したりする賢い方法を見つけてきたかを伝えている。いまではその多くが、中国経済の開放とテクノロジー産業の発展に貢献したとして称賛されているのだ。