66歳からのフォークギター 人生を奏でる編

(中)スタジオ「GEN」に込めた「ヤマハ中興の祖」の言葉

人生の「苦労」を笑顔で筆者(手前)に語る円さん。でっかい人だ=大阪市北区(須谷友郁撮影)
人生の「苦労」を笑顔で筆者(手前)に語る円さん。でっかい人だ=大阪市北区(須谷友郁撮影)

(上)とんで、とんでの「夢想花」 円広志が明かす誕生秘話

♪とんで、とんで…という円広志さんの代表曲『夢想花(むそうばな)』は、80万枚も売れる大ヒット曲となった。だが、すぐに飛んだわけではない。そして飛ぶとすぐに落ちた。今回のキーワードは「ジャイアント馬場」「紙ひこうき」「理事長の忠告」の3つ。この言葉がどうつながっていくのか-。さぁ、円さんの人生第2幕を奏でてみよう。

曲はできた。自分でも「いい出来栄えと思った」という。だが、発表の場がない。

〝奇跡〟が起こった。デビュー曲『あんたのバラード』で大ヒットを飛ばし、人気バンドになった世良公則&ツイストの〝凱旋(かいせん)公演〟が昭和53年に大阪で行われ、篠原義彦さん(円さんの本名)はその会場で、押し寄せるファンから世良さんたちを守る警備のアルバイトをしていた。すると-。

「篠原やないか」と人混みから声を掛けられた。ヤマハに勤める大学時代の先輩だった。

「何しとんねん。もう曲は書いてへんのか?」

「書いてます。聞いてもらえますか?」とポケットからカセットテープを出した。

いつ、どこで、誰にでも聞いてもらえるようにデモテープを持ち歩いているとは、さすが円さん! と筆者が感心すると「そやないんや」と円さんは照れた。

「オレ、ジャイアント馬場さんの大ファンでな。ときどき、レスリング会場で音響のバイトしてたんよ。馬場さんが入場してくるときテーマ曲のテープを掛ける係や。試合の合間にこっそり『夢想花』のテープ掛けてたんや。誰も聞いてなかったけどな」

武道館に舞う

『夢想花』は先輩の耳にとまった。レコード化の話もでた。だが、篠原さんはヤマハの「ポピュラーソングコンテスト」(通称ポプコン)や「世界歌謡祭」への挑戦を選んだ。

実は前年(52年)の両大会で世良公則&ツイストが『あんたのバラード』でグランプリを獲得していたのだ。高校生のとき篠原さんたちのバンド「ZOOM」の楽器を運んだりしていたあの世良が-である。

「悔しさ? たしかに俺もグランプリ取ったるという思いはあった。けど、ほんまは自分の心に〝決着〟をつけたかったんよ。いつまでもヒモ生活しとられへんし、落ちたらスパッと音楽を諦める。グランプリ取れたらプロ歌手や-ってね」

53年10月、「ポプコン」第16回大会。円広志として歌った『夢想花』は見事、グランプリを受賞。そして同年11月、「第9回世界歌謡祭」日本武道館大ホールの舞台に立った。

「世界歌謡祭」でグランプリ。舞台上で世良公則さん(左)にたたえられる円さん=昭和53年
「世界歌謡祭」でグランプリ。舞台上で世良公則さん(左)にたたえられる円さん=昭和53年

2日目の予選会。2度目サビの♪とんで、とんで…を歌っているとき、3階席から紙ひこうきが1つ、歌に合わせるようにゆっくりと会場を大きく旋回した。そして翌日の決勝で-。

「みんながチラシやプログラムを折って待ち構えていたんやろな。サビに入ったとたん無数の紙ひこうきが会場を飛び交った。体がしびれたわ」

足りないもの

「世界歌謡祭」でもグランプリに輝いた円さんは歌手デビューを果たした。『夢想花』は大ヒット。胸を張って東京へ乗り込んだ。ところが、続くヒット曲が出ない。コンサートも切符が売れずに中止になった。

「売れ続けようとする努力、環境、才能…いろんなものが足らなかったんやろね。オレにとってポプコンや世界歌謡祭のグランプリはスタートやなくゴールやったんよ」

それが分かるまでに3年半の時間を要した。その間、円は酒に溺れた。

「朝の5時まで飲んで、新宿の駅前の寿司屋で、通勤するサラリーマンを見ながらまた飲んだ。オレはこうやって人生から落ちていくんや…と思ったな」

そんな円さんを支えたのは奥さんだ。「しゃぁない人やなぁ」と文句ひとつ言わなかったという。

「諦めてたんとちゃうかな。けど、〝あの頃が一番楽しかったわ〟というんや。変わった奥さんやで」

ええ、夫婦やなぁ。

「もう、大阪へ帰ろ」と2人で決めたとき、円さんはある人物の言葉を思い出したという。その人は「ヤマハ中興の祖」といわれた川上源一氏(当時、ヤマハ音楽振興会の理事長)。「世界歌謡祭」でグランプリを獲得したとき、川上氏からこう言われた。

「君たちは所詮、アマチュアなんです。この大会の賞金や印税が入ったら、生きる道を真剣に考えなさい。そのお金を基盤にして自分の人生を作るんです。〝人生の基盤〟をこしらえてあげることが、私がアマチュアをこのコンテストに出す責任のひとつだと思っています」

理事長の言葉を胸に円さん夫妻は大阪へ戻った。(田所龍一)

ヤマハ・ポピュラーソングコンテスト

通称「ポプコン」。ヤマハ音楽振興会が主催。昭和44年から61年まで行われたフォーク、ポップス、ロックの音楽コンテスト。グランプリ受賞者にはレコードデビューが約束され、「世界歌謡祭」の出場資格が与えられた。

世界歌謡祭

同振興会が主催し昭和45年から平成元年まで毎秋、日本武道館で開催された。グランプリ受賞曲などを大手のレコード会社が宣伝し、売りまくった。第6回に出場の中島みゆきさんや、俳優としても開花した第8回の世良公則さん、タレントで地盤を築いた第9回の円広志さんがいる。

(下)タレント円広志を生んだ島田紳助さんの「1通の手紙」

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