奈良県高取町の国史跡「与楽鑵子塚(ようらくかんすづか)古墳」(円墳、6世紀中ごろ)の石室で確認されていた、黒く焦げた痕跡について、調査・検証していた同町教委は「埋葬時の木棺の焼葬(火葬)によるもの」と明らかにした。横穴式石室の内部で、遺体を木棺ごと焼いていたことになるが、『続日本紀』は、飛鳥時代の高僧、道昭の火葬(700年)を「わが国の火葬の始まり」としている。方法は別にして、その150年前に火葬行為があったことになる。実は同様の石室内火葬はこれで近畿地方で7例確認されたことになるが、古墳築造時期の推定から、同古墳が最古例の可能性があるという。被葬者は渡来系氏族「東漢氏(やまとのあやうじ)」の有力者とみられており、石室内火葬は「渡来人が持ち込んだ」との見方も出されている。
木棺ごと焼葬
与楽鑵子塚古墳は墳丘の直径28メートル、高さ9メートルの円墳で、墳丘の内側には、棺を安置する玄室(げんしつ)と通路にあたる羨道(せんどう)で構成された横穴式石室が設けられていた。玄室は長さ4・15メートル、幅3・15メートルだが、天井はドーム状で高さが4・5メートルもあった。羨道は長さ4・6メートルで幅1・4メートルだった。平成22年度に行われた発掘調査では、石室内が盗掘によって荒らされていたものの、木棺に打ち付けたとみられる鉄くぎや銀の指輪、釣り針のほか、ミニチュアの甕(かめ)や鉄製馬具などの副葬品も見つかった。
この調査では、石室床面に炭化物が残り、火を受けて黒く焦げたような痕跡を確認していたが、その実態の検討はしていなかった。このほど、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(奈良県橿原市)で、「豪族と渡来人―高取の古墳文化」展(3月21日まで)を開催することになり、同教委が13年ぶりに調査の成果を再検討した。