追悼に包まれた被災地、それぞれの祈り

【東日本大震災12年】東日本大震災の発生時刻に合わせて「奇跡の一本松」を背に黙とうする人たち=11日午後2時46分、岩手県陸前高田市(松井英幸撮影)
【東日本大震災12年】東日本大震災の発生時刻に合わせて「奇跡の一本松」を背に黙とうする人たち=11日午後2時46分、岩手県陸前高田市(松井英幸撮影)

東日本大震災から12年を迎えた11日、津波で甚大な被害を受けた被災地では、追悼の祈りが広がった。「癒やされることはない」「幸せなまちに」。遺族らはそれぞれの思いを胸に、弔いの時間を過ごした。

岩手・陸前高田

死者・行方不明者が1800人以上に上った岩手県陸前高田市。市中心部にある慰霊碑には、朝早くから献花に訪れる人々の姿がみられた。

「あれから12年がたっても、癒されることはない。心のどこかに、もやもやしたものがずっとある。あのとき、ほかの人を助けられなかった」。佐々木栄志さん(72)は、やり場のない思いを口にする。

一緒に訪れた妻の和子さん(69)も、津波で父や兄、親族を失った。「今年も、来たよ」。慰霊碑の両脇に設置された刻銘碑に刻まれた、一人ひとりの名前に手を合わせた。

「記憶が薄れていくのは嫌だ。でも、震災前のまちの景色はもうここにはない。忘れてしまうのかな」。12年という時間を、こう言葉にするのは、同市米崎町に住む女性(67)。いとこ夫婦などの親族、親しかった高校時代の同級生を亡くした。「もう昔の思い出が残る場所はない。亡くなった人たちを思うだけです」

宮城・名取

900人以上が犠牲になった宮城県名取市閖上(ゆりあげ)の「名取市震災メモリアル公園」にある慰霊碑にも、午前中から多くの人々が献花に訪れた。

石山敬子さん(75)は、亡くなった夫の健二さん=当時(64)=に手をあわせた。消防団員だった健二さんは、住民に避難を呼び掛ける途中で津波にのまれた。「見つかったときも消防団の法被を来ていた。誇らしく思うが、やっぱり辛い」。健二さんの名前が刻まれた名簿の前で、声を詰まらせた。

近くの伝承施設「閖上の記憶」の前では「追悼のつどい」が行われ、メッセージが書かれた約300個のハト型の風船が空を舞った。風船を飛ばした仙台市太白区の森くるみさん(26)は「身近なところで多くの方が亡くなった。祈りをささげたかった」と話した。

陽が沈んだ午後5時40分ごろ、市震災メモリアル公園では全国各地から寄せられたメッセージが書かれた約1千基の絵灯籠が灯り始め、「3・11 HOPE」の文字が浮かび上がった。

絵灯籠の設置を行っている「なとり復興プロジェクト」の佐々木悠輔さん(41)は「前向きな言葉を選んだのは今年が初めて」と話す。設置には、県内の高校生もボランティアとして参加した。

佐々木さんは「震災当時は幼く、震災の記憶がない高校生も、ボランティアを機会に、震災について学んでくれている。若い世代に継承していく意味でも、前向きに希望に向かっていこうという思いを込めた」と話した。

福島・いわき

関連死を含め、69人が犠牲になった福島県いわき市の久之浜・大久地区でも、慰霊行事が行われ、住民らは犠牲者を悼むとともに、まちの将来を願った。

震災後に整備された久之浜防災緑地には献花台が設けられ、地域住民や遺族が弔問に訪れた。地震発生時刻の午後2時46分に合わせ、1分間の黙禱(もくとう)。献花台の周囲には「笑顔あふれる未来へ」「やまない雨はない」などのメッセージが書かれた黄色のハンカチが150枚以上飾られた。

母と兄の妻を亡くした不動産業の男性(67)は「12年たって、早くもあり遅くもあり、複雑な思い」と漏らす一方、「生まれ育った場所なので、どんどん復興して人も増えてほしい」と語った。

実家が津波で流されたという高木義人さん(79)は「家がないのは寂しい。最期は実家で死にたかった」。自営業の遠藤政子さん(70)は、自宅が1メートル以上の津波に襲われた。「ハンカチを見て勇気をもらった。また明日から頑張らないといけない」と、前を向いた。

猪狩志保さん(25)も、津波で自宅が全壊。「マイペースでのんびりしたところが久之浜の良さ。みんなが笑って幸せに生きていけるまちになってほしい」と願った。(長橋和之、末崎慎太郎、深津響)

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