北川信行の蹴球ノート

Jリーグ30周年に思うクラマーさんの至言…98歳賀川さんが語る日本サッカーの歩み

1964年10月、日本代表の選手らと写真におさまるクラマーさん。日本サッカーに大きな影響を与えた
1964年10月、日本代表の選手らと写真におさまるクラマーさん。日本サッカーに大きな影響を与えた

J3が開幕し、すべてのカテゴリーでJリーグ30周年のシーズンが始まった。1993年に10チームでスタートし、現在はJ1からJ3まで合わせて、計60チームが名を連ねる。誰がこの姿を予想しただろう。だが「日本サッカーの父」と言われる故デットマール・クラマーさんは半世紀以上も前に、地域対抗リーグ創設の必要性を説いていた。98歳の現役最年長サッカーライター、賀川浩さんが4日に神戸市中央図書館の「神戸賀川サッカー文庫」で開催したサロンで改めて、クラマーさんが日本サッカー発展のために残した提言を紹介した。クラマーさんの至言には、今の日本サッカー界が抱える課題解消に通じるヒントも隠されているように思う。

世界のトップの方向に歩むために

神戸賀川サッカー文庫で話をする賀川浩さん(北川信行撮影)
神戸賀川サッカー文庫で話をする賀川浩さん(北川信行撮影)

賀川さんが所蔵する膨大なサッカー関連の蔵書が寄託されている神戸市中央図書館の神戸賀川サッカー文庫。4日のサロンには賀川さんと親交のある人たちを中心に10人が集まった。新型コロナウイルス禍などで中断していたが、先月から再開。ざっくばらんに質問をぶつける形で、日本サッカーの来し方や将来について、生き字引的存在と言える賀川さんの考えを聞いた。

Jリーグが30周年を迎えたことに対する感想を尋ねると、賀川さんから帰ってきたのは、Jリーグの前身ともいえる日本サッカーリーグ(JSL)創設のいきさつだった。

1964年の東京五輪で日本代表がアルゼンチンを破る旋風を巻き起こしたことで全国的に盛り上がったサッカー人気をさらに高めるためには、どうすればいいか。東京五輪に向けた日本代表チーム強化のため、初の外国人コーチとしてドイツから招聘(しょうへい)されたクラマーさんは五輪が終わって帰国する前に、日本サッカー界に5つの提言を残した(4つとする説もあるが、今回は賀川さんの話や日本オリンピック委員会の記載に合わせて5つで説明する)。

内容は日本オリンピック委員会の公式サイトの紹介文によると、

①国際試合の経験を数多く積むこと

②高校から日本代表チームまで、それぞれ2人のコーチを置くこと

③コーチ制度を導入すること

④リーグ戦を開催すること

⑤芝生のグラウンドを数多くつくること-だった。

賀川さんの説明では、実際はもう少し細かく具体的な指示だったそうで、「理事会後の記者会見というよりは日本サッカー界の懇談会の親玉みたいな会。日本サッカー協会の主だった人が集まり、新聞記者も集まった会合」で、クラマーさんは約2時間にわたって「日本のサッカーが発展していくために、東京五輪のときに呼ばれてここでいろいろなことをやってきたが、継続させて世界のトップの方向に間違いのないように歩んでいかないといけない」という話をしたのだという。

その要点が、いわゆる5つの提言。

賀川さんの話をまとめると

「日本代表チームは当面、長沼健監督、岡野俊一郎コーチの体制でやっていかなければならない」

「向こう何年かは毎年欧州に遠征して欧州のサッカーを吸収していかなければならない」

「東京五輪で日本代表として活躍した選手がそれぞれの地域にいる。それぞれが地域のチームとして試合をすれば、人気が出るのではないか」

といった話だった。賀川さんは「ここで日本サッカーの大きな方針が決まった」と述懐する。

実際、長沼健監督、岡野俊一郎コーチの体制を継続することで、日本代表は4年後の1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得。地域対抗のリーグ戦は1965年に日本サッカーリーグ(JSL)として実を結び、Jリーグへと発展していく礎となった。

「(JSLは)東京五輪が終わった後に、クラマーが『こういうのを必ずやっていかなあかん』と言い出したのが最初。地方のサッカーを盛り上げ、レベルを保つためにも、お互いに対抗するのがいいという話。そこで、日本のトップの実業団の強いチームが集まり、リーグ戦形式でスタートした。いい選手も出たし、人気も出た。将来にわたって、こういう運営をしていかなければならないというのがあった」と振り返った賀川さんは「戦後、軍隊がなくなったので、軍務に就くためにサッカーを中断しなければならないということがなくなった。そういった要因もあって、大学よりも実業団のチームにいい選手が集まるようになっていた時代だった。日本の各地域に強い実業団があった。広島に東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)があり、関西にはヤンマーディーゼル(セレッソ大阪の前身)があった。関東・東京には6つも7つも実業団の強いチームがあった。それらが対抗することで人気が出た」と背景を説明した。

特性を持ったスターがリーグを盛り上げる

日本サッカー殿堂で談笑するクラマーさん(左)と釜本邦茂さん=2005年
日本サッカー殿堂で談笑するクラマーさん(左)と釜本邦茂さん=2005年

JSLの発展に欠かせなかったのが、釜本邦茂さんに代表されるスター選手の登場だ。賀川さんは「誰が言い出したのかは分からないが、それまではサッカーはチーム競技でチームゲーム、チームの勝ち負けが大切で、チームワークを磨いて点を取ったり失点を防いだりすることに重点が置かれていた。ところが東京五輪の後、釜本邦茂という日本人には珍しいスケールの大きな選手が出た。それから釜本とJSLが注目されるようになった。お客が入るようになると、日本サッカー協会も力を入れるようになった。それが今日のサッカーの隆盛のきっかけにもなった。足の速い選手、ずば抜けてうまい選手が各地域でプレーすることで、日本サッカーの最も華やかな部分が生まれ、上手な選手を見に行くという習慣まで一般の人たちに植え付けた」と話す。

1993年のJリーグ元年に釜本さんと同じような役割を果たしたのが、56歳となった今も現役を続ける三浦知良や鹿島アントラーズに加入した元ブラジル代表のジーコさんらだった。「そういう選手がどこでプレーするかが大事だった。そのチームの試合を見たいということで、リーグ全体が人気を呼んだ」と指摘した賀川さんは「昔はなんでもかんでもチームワークとよく言ったものだが、チームゲームでも、この選手はここでボールを持ってこういうふうにしていったら必ず得点が入るというようなプレーが注目されるようになった。誰が見てもよく分かるには、個人的なうまさがないといけない。個人がいかに大切か。そのうち個人の技術をたくさん見せることができる選手が評判になり、もてはやされるようになった」と歴史をひもといた。

ある意味、昨年のワールドカップ(W杯)カタール大会のスペイン戦で豪快なミドルシュートを決めて「あそこは俺のコース」と発言した堂安律(フライブルク)に通じる話ではないだろうか。

自然発生的な地域対抗だから長く続く

日本代表の寄せ書きを前に思い出を語るクラマーさんと賀川浩さん=2006年
日本代表の寄せ書きを前に思い出を語るクラマーさんと賀川浩さん=2006年

さらに賀川さんが指摘したのが「Jリーグ」というネーミング。「名前をどうするかというので、ごく簡単にJリーグになった。ややこしい名前をつけないことがよかった。その後、いろいろなスポーツ団体で同じような方式になった」と感想を話す。

その上で「Jリーグが発足して、日本のサッカーは変わった。人気のあるチームが地方で試合をするからお客も入る。スポーツはもともと自然発生的に地域対抗で始まった歴史がある。たとえば、イングランド対スコットランド。『英国内の〝国際試合〟(ホーム・インターナショナル)』が欧州で人気となった。スター選手も出た。そこから、こんにちの国際試合に発展していく。そういう欧州の伝統から考えて、やっていこうとなったのがJリーグ。発足当時は他のスポーツ団体はなぜ、Jリーグを始めるか、分からなかったのではないか」と30年前を振り返る。

そして、賀川さんはこう強調した。「Jリーグで、特性のある地域のチーム同士が試合をするというので、長く続くようになった。日本サッカー協会主体の全国大会とは別に、地域の代表チームが試合をする。自然発生的なものだったから、今まで続いている。Jリークの歴史を語るときに、(礎を築いた)JSLの社会貢献を忘れてはいけない」。

「温故知新」という言葉がある。産経新聞社の大先輩であり、日本人で初めて国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を受賞した賀川さんの話を聞き、改めてその大切さを思った。


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