《俳優として試行錯誤が続く中で出会ったのが、年間平均視聴率が52・6%にも達したNHK連続テレビ小説史上屈指の傑作「おしん」(昭和58年4月~59年3月放映)だった》
ボクサーを引退し、一から学ぶつもりで俳優を志してから5年目。自分でも演技の基本が分かった感じになってきたころにはまり役をいただきました。主人公のおしんを幾度となく助け、陰で慕う的屋の親分、中沢健という役でしたが、せりふも多い重要な役柄でした。
最初に台本を見たとき、それまでに経験したことのないシリアスな演技が求められるなと、ぞくぞくしたのを覚えています。そして、この役をしっかり演じることができれば、いつまでもボクシング元世界王者の「お客さん」ではなく、一俳優として芸能界で市民権を得られると思い、勝負をかけました。結果としていい仕事ができ、自信を深めることができました。
実際、おしんの前と後では、何から何まで変わった。ギャラは大幅にアップし、仕事はさばき切れないほど舞い込み、初めて俳優として仕事を選べる身分になりました。おしんは海外でも放映されたので、その反響の大きさにも驚きました。何年か後に中国を旅行した際、行く先々で「おしん、おしん」と指さしされ、誇らしかったです。
《おしんで「的屋の健さん」を演じるまでには、いろいろな伏線があった》
55年に私は、TBSのあるドラマにレギュラー出演することが決まりかけていました。そんなとき、プロデューサーの岩崎嘉一さんから電話があり「悪いな。あの計画、キャンセルになった」と告げられました。私は「どこが悪くてキャンセルになったのですか。理由を教えてください」と食い下がった。岩崎さんは「君は先日(他局の番組で)女装して踊っただろ。あれを見たお偉いさんが『イメージダウンだから代えろ』って言ってきたんだ」と正直に教えてくれました。
「分かりました」と電話を切ろうとすると、岩崎さんが「君は根性あるな。普通、キャンセルの理由なんて聞いてこないものだ。よし、今、橋田寿賀子が来年のNHK大河の脚本を書いているから、君の役が作れないか聞いてやるよ」と言ってくれたのです。私は「ぜひお願いします」と答え、続けて恥ずかしくも「ところで橋田さんってどなたですか」と聞いてしまった。岩崎さんは少し笑って「俺の女房だ。俺より有名だから名前ぐらい覚えておきなさい」と優しく諭してくれました。
《橋田さんが脚本を担当した56年のNHK大河ドラマ「おんな太閤記」に、端役ではあったが本当に出演できた》
全50回放送のうち2回、森弥五六(やごろく)という役で出させてもらいました。私の撮影日には橋田さんはスタジオまで来られ、収録後に一言、「これからも頑張ってね」と励ましてくれました。関係者に後で聞いたら、橋田さんは「元ボクサーだっていうから、どんな人か見に来たの。一生懸命だったから、次の機会にも出てもらいましょう」と言ってくれたそうです。
その2年後、橋田さんが原作、脚本を担当されたおしんで、中沢健役をいただいた次第です。健という名は、私が高倉健さんの大ファンだということを知っていた橋田さんが「サービス」で付けてくれたものです。橋田さんに「この役は最初からあなたにやってもらうつもりで書いたの。だから、健。これ以上の名前はないでしょ」と言われた私は、感激で体が震えました。
おしん役の田中裕子さんとは波長が合い、さまざまなことを学ばせてもらいました。私の出演分の撮影が終わった日、共演者、スタッフの皆さんから花束を贈られ、私は1人楽屋で花束を抱き、泣きました。私にとってあの花束は、俳優として初めての「チャンピオンベルト」でした。(聞き手 佐渡勝美)