話の肖像画

プロボクシング元世界王者・タレント ガッツ石松<9> ライバルに雪辱、東洋王座を奪取

門田新一選手(左)とのライバル対決を制し、東洋ライト級王座を奪取した =昭和47年1月16日、東京・後楽園ホール
門田新一選手(左)とのライバル対決を制し、東洋ライト級王座を奪取した =昭和47年1月16日、東京・後楽園ホール

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《パナマでの世界王座初挑戦は失敗に終わったが、戦いぶりが評価され、選手としての株は上がった。世界再挑戦への足掛かりにしようとチャンピオンの称号を求め、昭和46年3月、日本ライト級タイトルマッチのリングに上がった》


日本王者の高山将孝選手は早大ボクシング部出身で、東京五輪代表にもなった元アマチュアエリート。基本に忠実なきれいなボクシングが特長で、何から何まで私とは対照的でした。私より4歳年上ですが、プロデビューは逆に1年遅かったという事情もあり、ライバル心を抱いたことはありませんでした。

ただ、世界再挑戦の前に、一度「チャンピオン」の称号が欲しくてこの試合に臨みました。10ラウンド終了のゴングが鳴ったとき、私は勝ったと思ったのですが、結果は引き分け。タイトル戦では、引き分けは王者防衛になるので、私は負けたに等しかった。でも、悔しさはほとんどなく、すぐに気持ちを切り替えました。


《そのころ、最大のライバルと意識した選手がKO勝ちの山を築いていた。東洋ライト級王者の門田新一選手だ》


門田選手は私と同じ年で、デビューも同時期だったので、いつしかライバルとしてみるようになっていました。サウスポーで右フックが強く、7割近いKO率を誇っていました。マスコミもボクシング関係者も「次に日本から世界ライト級王座に挑むのは石松と門田のどっちだ」みたいに注目していました。

そして46年8月、ノンタイトルの十回戦で対決することになりました。門田選手は前年10月に3回KOで韓国選手から東洋ライト級王座を奪取し、その後2回の防衛戦も全く相手を寄せつけずにKO勝ちしていた。マスコミの評価も「門田の方が石松より上」に傾いていたので、私は並々ならぬ闘志をもってこの試合に臨みました。

結果は私の8回KO負けでした。7回までは私が2~3ポイントリードしていたのですが、スタミナ切れで8回は動けず、門田選手の強打に屈してしまった。

この日以来私は、ロードワークのときもジムでの練習中も、常に「打倒、門田」と心の中で叫んでいました。この選手を倒さなくては、世界再挑戦もありえない。そんな思いでいっぱいでした。


《雪辱を期す、再戦の機会は意外と早く訪れた》


翌年1月16日に予定されていた門田選手の東洋ライト級王座4回目の防衛戦で、対戦相手のタイの選手が急病で来日できないことになってしまったのです。門田選手が所属する三迫ジムの三迫仁志会長からヨネクラジムの米倉健司会長に「鈴木(石松)君に代わりに出てもらいたい」と懇願する電話があったのは、試合予定日の1週間前でした。

「出る出ないはお前が決めろ。無理はしなくていい」と米倉会長には言われました。東洋戦ともなれば、通常なら2カ月は調整するものです。それが1週間とは常識ではありえなかった。迷いに迷いましたが、私は受けることにしました。

同じ相手に2度続けて負ければ、引退もありえました。しかし、訪れたチャンスをみすみす逃すのは、私の性に合わなかった。それに当時は、約61・2キロのライト級リミットまでの減量も5~6キロですんだので、1週間あれば落とす自信もあった。

結婚前の同棲(どうせい)中だった妻は大反対でした。調整不足では勝てるわけがないと思ったのでしょう。私もこれは賭けだと思いました。今振り返っても、あの試合は自分のボクサー人生の行方を決した最大の決戦だったと思います。また、あのころ、妻の妊娠が判明し、生まれてくる子供のためにも絶対に負けられないという状況にありました。

結果は、3―0の判定で私が勝った。世界、日本と挑んで、三度目の正直でチャンピオンベルトを初めて腰に巻くことができました。(聞き手 佐渡勝美)

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