一昨年に開催された東京オリンピック・パラリンピックが、ズタズタに傷ついている。その反省や怒り、五輪の復権に、組織委員会やスポーツ界の責任ある立場の人らは言葉を尽くしているか。何も聞こえてこないことが不思議でならない。
東京大会のテスト大会を巡る入札談合事件で、東京地検特捜部は独禁法違反(不当な取引制限)の疑いで、大会組織委の運営局元次長や電通など受注企業の幹部らを逮捕した。
一連の五輪汚職に続いて組織委から逮捕者を出す事態となった。だが組織委はすでに解散し、清算法人も事件を検証することなく、近く業務を終える方向という。
談合事件は、1人の元次長と受注企業の犯罪として終わろうとしている。そこに負うべき罪科があれば捜査を尽くすのは当然だが、組織委幹部や決裁者の責任、意思決定の経緯がうやむやとなる構図は釈然とし難く、それは五輪汚職とも共通している。
五輪汚職事件の公判では、贈賄罪に問われた紳士服大手AOKIホールディングス(HD)前会長の青木拡憲被告らに対し、検察側は論告で「大会の公共的価値を踏みにじった」と批判した。
両事件の最大の罪は、ここにある。さらに、踏みにじられた価値を放置してきた組織委幹部やスポーツ界の無責任が、そうした負の側面を拡大させている。
東京五輪やパラ大会で内外の選手が全力を尽くすことで呼んだ興奮や感動は本来、こうした事件に毀(き)損(そん)されるものではない。だが、スポーツ界が自ら五輪やパラリンピックの価値を語らなくては、「汚れた五輪」と一くくりに貶(おとし)められたままとなる。
2030年冬季五輪の招致を目指す札幌市は事実上、機運醸成の活動を休止している。五輪汚職や談合など、不祥事頻発の影響を受けたものだ。「どれだけ五輪が国民の方に求められているのか」と疑問を覚え、来年のパリ大会を「目指さない」と宣言する選手も出ている。
だからこそ、東京大会の反省を明言し、五輪本来の魅力やパラ大会の価値を語るべきなのがスポーツ界の責務ではないのか。
五輪が標(ひょう)榜(ぼう)する価値は「卓越、友情、敬意」であり、パラ大会は「勇気、強い意志、公平、インスピレーション」だ。そうした原点を、自ら取り戻してほしい。