人口4千人足らずの和歌山県すさみ町は、日本のレタス栽培発祥地といわれている。昭和16年ごろに栽培が始まり、戦後、「関西随一の産地」として知られるようになったとされる。だが、ピークを迎えた50年代以降、収穫量は減少し、現在、町内で生産しているのは10人に満たない。後継者不足で町内のレタス栽培が続くか懸念する声もあるが、再興に向けて「発祥地」としてのブランド力を高めようとする生産者もいる。
「町経済の大きな柱」
すさみ町誌によると、16年ごろ、現在のすさみ町で栽培が始まったが、戦争の影響でいったん中断。戦後、浜口近蔵という人物が栽培を再開し、大阪のホテルに出荷した。浜口は30年にブラジルに移民したが、渡航に際し、農協を訪れて栽培法などを教え、栽培農家が増えていった。農協は販路拡大に努め、米軍基地にも出荷。関西市場や名古屋方面に進出し、「関西随一の産地」という名声を得るまでになった。
町誌が発行されたのは53年で、「現在では生産総量一七〇〇トン、金額にして三億(円)、町経済の大きな柱になるまでに成長した」とある。
横浜市の横浜開港資料館によると、レタスは幕末に横浜から入ったというが、生で食べることが多いレタスは国内では長く普及しなかった。すさみ町の歴史を担当する町教育委員会社会教育課の出嶋洋昭副課長は、栽培発祥地を根拠づける資料は見つかっていないとしながらも「本格的に商業ベースで栽培したのは浜口氏が初めてだろう。すさみのレタスのおかげで、レタスをサラダとして生で食べる習慣が広がった」と話す。
和歌山県などが作製した冊子や県食品流通課が運営するブログにも、すさみ町が日本のレタス栽培発祥地という記述がある。
レタスで高校や大学に
レタスはすさみ町だけでなく、県内各地で栽培されるようになり、昭和48年からの農林水産省の統計によると、県内収穫量は53年と59年に最高の1万1千トンに達した。だが、その後減少し、平成28年には857トンにまで落ち込んだ。以降は収穫量が少ないため調査は6年に1回となり、その後の統計はまだ出されていない。
28年の統計で都道府県別にみると、収穫量は長野が20万5800トンとトップで、次いで茨城8万6100トン、群馬5万400トンと続き、857トンの和歌山は大きく水をあけられていた。
すさみ町は人口減少が続き、国勢調査では昭和55年の7299人から令和2年にはほぼ半分の3685人に減少。近年は毎年100人前後減っている。65歳以上の高齢化率も高く、今年1月1日時点で、全国の29%を大きく上回る47・3%に達している。
町商工会によると、昭和57年ごろは生産者が134人いたとしているが、JA紀南すさみ支所の担当者は「町内でレタスをつくっているのはここ2、3年は7~8人。若者は都会に出ていくため、後継者不足が大きな原因」とし、「町内のレタス栽培がなくなってしまう可能性がある」と懸念する。
町内では、コメの裏作としてレタス栽培が行われ、11月~翌年2月に収穫される。町内でレタスをつくる阿部集(あつむ)さん(75)はかつての様子を「ほとんどの田んぼでレタスを栽培していた。農協への出荷のために軽トラックや荷車などが列をなしていた」と振り返り、「レタスのおかげで高校や大学に行かせてもらったという人もいる」と打ち明ける。
「レタスの日」を
山間部にあるすさみ町太間川(たいまがわ)地区。約10アールの畑でレタスを生産している和歌山県田辺市の矢形孝志(やかた・たかし)さん(54)は令和2年に勤めていたホテルをやめ、農業を始めた。「50歳を過ぎて別のことに挑戦したかった。日本のレタス栽培発祥地でありながら生産者が減っているので、再興しようと思った」と動機を語る。
畑は実家のそば。本格的に栽培し始めたのは昨シーズンからで、約4千玉を収穫。今シーズンは昨年11月から収穫を開始した。
矢形さんは「レタスづくりはハードだった」というが、再興に向けて生産したレタスに栽培発祥地を意味する「レタスの故郷すさみ」というパッケージをつけてホテルやスーパーに納入している。
さらに「レタスの日」を設定してイベントなどで盛り上げ、生産者増加を図ろうという活動も繰り広げている。記念日は米国に移住してレタス栽培で成功した町出身の南弥右衛門(1880~1973年)の誕生日の12月2日で、生産者に趣旨を説明した文書を配布している。
今年は南が死去してから50年という節目にあたる。矢形さんは「発祥の地ということを知ってもらい、すさみのレタスの付加価値やブランド力を高めたい。そうなれば生産者の増加にもつながる」と力説する。(張英壽)