話の肖像画

プロボクシング元世界王者・タレント ガッツ石松<8>ノリエガ将軍が歓待 パナマでの世界挑戦

数々のトロフィーの前で、53年前の世界初挑戦を振り返る =東京都中野区(飯田英男撮影)
数々のトロフィーの前で、53年前の世界初挑戦を振り返る =東京都中野区(飯田英男撮影)

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《世界タイトル挑戦が決まっていた東洋ライト級王者を相手に、まさかの番狂わせで勝利し、逆に自身が世界挑戦の切符をつかんだ。試合は昭和45年6月6日、王者の地元、パナマ市で行われた》


デビューしてからまだ3年半。十回戦を3回経験しただけで日本、東洋タイトル挑戦をスルーして一気に世界挑戦とは、正直、自分でも早すぎると思った。世界王者になる筋書きは自分なりにいろいろ描いていましたが、こんなに早い挑戦は想定外でした。でもやるからには勝つしかない。試合の3週間ほど前には勇んで、運河の国・中米パナマに乗り込みました。羽田空港から飛行機を乗り継いで、丸々2日かかった。私にとって初の「海外旅行」、飛行機に乗るのも初めてでした。ちなみに45年というと、成田空港の開港8年前で、1ドル=360円の固定相場制の時代。まだ、海外旅行は大多数の国民にとって「高根の花」の時代でした。


《パナマでは「国賓」級の歓待を受け、後に独裁者として名をはせる、かのノリエガ将軍からも食事に招かれた》


パナマはサッカーよりも野球の方が人気があるという、中南米では珍しい国らしいのです。でも、一番人気の国民的スポーツは何といってもボクシングだと、渡航前から聞かされていました。

実際、世界戦への注目度は相当高く、私の挙動、練習具合も連日報じられ、道を歩くとどこでも「ハポン(スペイン語で日本)、ハポン」「ススキ(鈴木)、ススキ」と連呼されました。スペイン語ではZの発音は濁らず、SUZUKIはススキになるらしいのです。

連日、高級な食事の誘いを受けました。相手は皆、偉い人ばかりだったので、機嫌を損ねないように顔は出しました。とはいえ減量中なので、せっかくの料理が手を付ける程度しか食べられなかったのは残念でした。

ある日、チョビ髭(ひげ)が目立つ40歳前とおぼしき軍人から食事に招かれました。何と、後に独裁者として君臨するノリエガ将軍だったのです。ノリエガさんは美女5人もその場で紹介してくれ、「ススキ、滞在中、5人を自由にしていい。ただし、全員と平等に遊んであげてくれ」と私に言った。無論、その〝好意〟には応えられませんでしたが、仰天しました。

同席したヨネクラジムの米倉健司会長も「敵さんは、お前をリングに上げる前に、国を挙げて骨抜きにする作戦のようだ。すごい国に来たものだ」と〝分析〟していました。


《試合では、世界王者に実力の差を見せつけられ、奮闘むなしく13回TKOで敗れた》


対戦したWBA・WBC統一世界ライト級王者のイスマエル・ラグナは、このとき26歳で70戦ものキャリアがあった。私は試合前日が21歳の誕生日で、まだ25戦しか経験がなく、十一回以降は未知のラウンドでした。

当然ですが、それまでに対戦した誰よりも、ラグナは速くてうまかった。特に左ジャブが矢のように速く、対応できなかった。パンチは強くはなかったが、当たると痛いという異質なパンチでした。

私の勝機は五回に一度だけありました。左ボディーから、そこそこいい右を顔面に決め、ラグナがぐらついた。勝負するなら、あそこでスタミナのすべてを使い切るべきでした。

十一回以降は、やはりスタミナが切れ、十三回に棒立ちになって連打を浴びたところで、レフェリーストップがかかりました。一度もダウンしなかったことが、せめてもの意地でした。

試合後は、悔しさよりも満足感の方が強かった。世界王者と自分との距離が体感でき、それは小差で必ず詰められる範囲だと確信できたからです。でも、その少しが実は大変な差なのです。私が世界王者になるには、なお4年を要しました。

(聞き手 佐渡勝美)

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