「日の丸ジェット」は道半ばで頓挫 経験不足露呈

愛知県営名古屋空港を離陸し飛行するスペースジェットの試験機=2020年3月(三菱航空機提供)
愛知県営名古屋空港を離陸し飛行するスペースジェットの試験機=2020年3月(三菱航空機提供)

三菱重工業が、開発の中止を発表した国産初のジェット旅客機「スペースジェット」。約半世紀ぶりとなる国産旅客機の期待を背負い、官民一体で開発してきたが、「日の丸ジェット」の構想は6度の納期の延期を繰り返し、撤退を余儀なくされた。100万点規模の部品から造られる航空機は産業の裾野が広い。部品メーカーには成長分野に発展するとの期待もあっただけに、国産初のジェット旅客機の頓挫は日本経済にも打撃となる。

スペースジェットは平成20年に事業化が決定。日本の航空機産業を育成する一大プロジェクトで、経済産業省も500億円を支援したが、設計変更や検査体制の不備などを重ね、初号機納入の延期を繰り返した。泉沢清次社長は会見で「経験を持ったエンジニアがわれわれにはいなかった」と、経験不足などを失敗の理由にあげた。

試験飛行レベルの機体は造り上げたが、世界の航空機メーカーに肩を並べる技術はなく「やってみて(初めて)分かることがあった」(泉沢氏)という。さらに開発に時間がかかりすぎたことで、技術は陳腐化し競争力を失った。

三菱重工が事業撤退する一方、リージョナルジェット市場ではブラジルのエンブラエルが強い。ホンダの米子会社が開発した、より小型のビジネスジェット機「ホンダジェット」も同クラスで納入数が5年連続で首位となるなど、成功を収めている。

これに対し、米ボーイング向けなどの航空部品を製造する三菱重工は、完成品に仕上げる経験やノウハウが不足していた。泉沢氏は「(ジェット機開発への)理解が不足していたことは否めない」と振り返った。

当初1500億円としていた開発費も1兆円規模に膨らみ、三菱重工の経営を圧迫。事業凍結後は人員や開発費を大幅に削減した。

開発を担ったのは、三菱重工の子会社である三菱航空機。愛知県や周辺の企業は事業の発展を見据え、中小企業も部材での事業化を進めていたが、三菱重工の事業撤退の影響は避けられない。(今仲信博)

会員限定記事会員サービス詳細