《悪友に背中を押されて、たまたま入門したヨネクラジムだったが、活気にあふれ、良き師、良き先輩に恵まれた》
私が入門した昭和41年はジム開設からまだ3年で、米倉健司会長も32歳と若かった。常々「ヨネクラは一代限り」と言っていた会長が6年前にジムを閉じるまでの54年間に、5人の世界王者、30人以上の東洋王者・日本王者を輩出するのですが、私が入ったときはまだ、ジムには日本王者が1人いるだけでした。でも、日本王者目前のメインイベンターが何人もいて、米倉会長も情熱的でした。
会長は元東洋バンタム級王者で、世界王座にも2度挑戦したのですが世界王者にはなれず、自身が果たせなかった夢を門下生たちに託していました。
ジムのホープは、17歳でデビュー以来、無敗で連勝街道を走っていた柴田国明選手でした。柴田さんは私より2歳年上で、後にフェザー級とジュニアライト(現スーパーフェザー)級で世界王者になる名選手です。
リズミカルなボクシングが柴田さんの特徴で、パンチも強かった。「末の世界王者」といわれていた柴田さんを私は入門当初から、手本として意識し、練習に励みました。アドバイスもたくさんもらいましたが、いつも柴田さんは上から目線。でも、童顔で声に愛嬌(あいきょう)があり、憎めなかった。感謝、感謝です。
柴田さんとはスパーリングもよくやってもらいました。私がまだ4回戦ボーイのころから柴田さんが世界王者になるまで、何百ラウンドもやってもらったのですが、実は私の方がずっと強かった。柴田さんをロープに詰めて連打すると、米倉会長によく、「石松、遠慮しろ」とブレーキをかけられたものです。
私は入門してから1年もすると、ジムの「スパーリング王」になっていたのです。2~3階級重いクラスの日本王者とやっても、スパーリングでは私の方が強かった。なぜ強かったのかというと、試合だとスタミナの配分を考えなくてはならないのですが、長くても3ラウンドのスパーリングではその必要がなく、最初から最後までガンガンいけたからです。けんかも普通は1分以内に決着がつくもの。短いと滅法(めっぽう)強いのは、子供のころからの私の特性です。
《誰もが、ヨネクラジムから最初に世界王座に挑むのは柴田選手だと思っていたが、自分が先んじた》
挑戦は私の方が先でしたね。全く予期せぬ、ラッキーな「棚ぼた世界挑戦」でしたが…。
45年1月に私は、東洋ライト級王者のジャガー柿沢選手とノンタイトルの十回戦を戦いました。当時、柿沢さんは11連勝中と絶好調で、春にパナマで世界ライト級王者のイスマエル・ラグナに挑戦することが決まっていたのです。一方の私は、前年10月に初めて十回戦を経験したばかりで、まだ3度目の十回戦でした。
柿沢陣営は、世界挑戦へ向けて勢いづかせる前哨戦の相手として、私を指名したのです。三度笠姿で登場する、あの変わった名前(鈴木石松)の選手とやれば、試合会場も盛り上がり、テレビ局もつく(放映する)と思ったようです。いわば、私は「かませ犬」だったのです。
しかし、なめられてたまるかと、私の闘志には火が付きました。そして僅差ながら、3―0で私が判定勝ちしたのです。スポーツ紙は「石松がまさかの金星」と大きく報じました。
あわてたのは、興行権を持っていたラグナ陣営でした。世界ランキング4位だった柿沢さんはこの敗戦で世界挑戦に必要な「10位以内」から脱落し、逆に私が世界6位に入った。ラグナ陣営は柿沢さんの代役を探し、結局、私にお鉢が回ってきたのでした。試合は6月。まだ日本タイトルすら挑戦したことのなかった私が、いきなり世界に挑むことになったのです。
《遠征したパナマでは仰天する数々の経験が待っていた》(聞き手 佐渡勝美)