昭和51年シーズン、小林が先発すると不思議と打線が爆発した。
「小林のテンポのいい投球が守っている野手のリズムと合っているんだろう。それが打つ方にも効いてくるんだ」
杉下投手コーチの分析は以前にも掲載した。その傾向は昭和52年シーズンも続いていた。
◇5月10日 川崎球場
巨人 000 510 200=8
大洋 002 000 100=3
(勝)小林5勝1敗 〔敗〕宮本2敗
(本)王⑧(宮本)⑨(間柴)リンド②(宮本)張本⑤(根本)松本①(間柴)高木⑤(小林)
この日も5ホーマー8得点。小林は8安打、9奪三振、3失点で楽々完投。ハーラーダービーのトップに立った。
「ことしの目標は15勝。この分ならいけますね。打線のおかげです」
小林はペコリと頭を下げた。その視線の先には2ホーマーを放った王が記者たちに取り囲まれていた。
「きょうはどうしてもホームランが打ちたかったんだ。入団して19年、5月10日の試合で一度もホームランを打ったことがなかったしね」
そんなことがあるのだろうか―と記者たちは驚いた。
記録を調べると、王がデビューした34年から前年の51年まで、5月10日には12試合が行われ、王は10試合に出場。33打数11安打5打点(8三振12四死球)。たしかに本塁打は一本もない。
王によると「この日に限って〝打ちたい〟と思い過ぎていたから」という。でも、なぜ、そんなに打ちたいと? 王の口からまたまた衝撃の告白が飛び出した。
「それは今日がボクの〝もう一つの誕生日〟だからなんだ」
NPB(日本野球機構)の資料には王の誕生日は5月20日となっている。
「皆もご存じのようにボクは双子ね。生まれたとき小さくて〝本当に生きられるのか〟と周囲が心配したほど。それで父親(仕福さん)が出生届を10日遅らせて5月20日に出したんだ」
王が女の子との二卵性双生児だったのは有名なお話。その女の子は「広子」と名付けられたが、1年3カ月後、はしかが原因で他界していた。
「だから、どうしても10日に打ちたくてね。やっと打てたよ」
王はうれしそうに笑った。通算725号。ハンク・アーロンの世界記録まであと「30本」である。(敬称略)