《17歳でプロボクサーとなり、昭和41年12月11日、デビュー戦を迎えた》
「さぁ、やってやるぞ」という気持ちがある一方で、デビュー戦には怖さもありました。試合用と練習用ではボクシンググローブがかなり違うからです。練習では拳を痛めないように12オンス(約340グラム)のものを使うことが多かったのですが、試合では当時6オンスが普通。これだとナックルパート(拳の部分)を覆うのは革1枚といった感じで、パンチの効き方が格段に強烈なのです。けんかと同じで先にパンチを当てた方が勝ちだと思って戦い、相手の藤原正夫選手に対して試合開始早々、強烈な右フックをたたき込み、1回KO勝ちでデビュー戦を飾りました。
その後、3連勝したのですが、5戦目で初黒星。ここでヨネクラジムの後援会長から「鈴木有二という名前がおとなしすぎる。おっちょこちょいで森の石松に雰囲気が似ているから、リングネームを鈴木石松に変えよう」という提案があり、米倉健司会長も「良いアイデアです」と応じ、42年6月の6戦目から私は「鈴木石松」を名乗るようになりました。
さらに、石松風に三度笠に道中合羽の旅姿でリングにあがってお客さんを喜ばそうということになり、私のトレードマークが確立されました。最初は恥ずかしくて、「俺はコメディアンではない」と言いたいところでしたが、今ではあの三度笠パフォーマンスで目立ったことが、私に多くの幸運をもたらしてくれたと思っています。
《42年度の新人王戦は予選で敗退したが、43年度は勝利を重ね、世間の見る目も変わった》
43年度もまだ出場資格があったので、前年度に続きライト級で新人王戦にトライしました。理由はテレビに出て栃木の両親を喜ばせたかったからです。当時のボクシング人気は相当なもので、新人王戦でさえテレビ中継されていたのです。
東日本新人王戦の準決勝で弓真選手に1回KO勝ちすると、粟野町の兄から「あの悪ガキがテレビに出てるって、町では大変な騒ぎになっている。視聴率は100%だ。あと2つ、頑張れ!」と電話がありました。
東日本の決勝戦は相手が負傷で棄権。44年2月3日、私は西日本新人王の山本強選手と東京・後楽園ホールで対戦し、2回KO勝ちして全日本ライト級新人王に輝きました。この試合には、バス3台を連ねて粟野町から100人を超す応援団が駆けつけてくれました。
《翌月、粟野町の公民館では「鈴木有二君 新人王戦祝勝会」が開かれた》
新人王ぐらいでは「故郷に錦を飾る」なんてつもりもなかったのですが、町長に自ら「町の誇りだからぜひ来てほしい」と頼まれれば、(欠席は)失礼になると思い、米倉会長に付き添ってもらい、自分で車を運転して3年ぶりに粟野町に帰りました。
すごい歓迎ぶりで感激しましたが、戸惑いもありました。会ったことも見た記憶もないような人が寄ってきて、「親戚だ」「お父さんの昔からの知り合いだ」とか名乗って、米倉会長に「有二は昔はこうだった」「根性のある子だった」とかやるわけですよ。「あなた一体、だれなのよ」と思いました。
東京への帰り道、私はハンドルを握りながら泣きました。米倉会長が「そんなにうれしかったのか」と言うので、「それは半分。涙の理由じゃない。札付きのワルだ、貧乏人の小せがれだとか、これまで散々人のことをバカにしてきたくせに、簡単に手のひらを返されたので何か悔しいんですよ」と答えました。
「石松、人間とはそういうものだ。いいか、新人王で町中が『親戚』だぞ。この後、日本、東洋と上がって、世界チャンピオンにでもなってみろ。日本中が『親戚』になるぞ。でっかい夢を見ようぜ」。さすが会長、言うことが違うと思いました。(聞き手 佐渡勝美)