千田嘉博のお城探偵

静岡県・駿府城「日本最大の天守台」に異議

駿府城公園=静岡市葵区
駿府城公園=静岡市葵区

NHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまっている。今回は以前にも取り上げた静岡県の駿府城を考える。駿府に家康は3度暮らした。まずは今川義元の人質としてだった。近年の研究によれば、家康は駿府で今川氏の一門格として遇され、人質とはいえ恵まれた青年時代を過ごした。駿府は家康にとって幸せな記憶のまちであったのだろう。後年、将軍職を息子の秀忠に譲り、大御所としてどこにでも住めた家康が駿府を選んだのは、ただ政治・軍事的理由だけではなかったと思う。

さて家康は1585(天正13)年から天正期の駿府城の工事に着手した。家康の一族・松平家忠の日記『家忠日記』に、天守や小天守の石垣工事を家臣たちが行った記述があるので、静岡市の発掘で見つかった天正期の天守台石垣は、家康が築いたことは間違いない。この石垣について静岡市は発見時に、家康が江戸城へ移った後に秀吉が駿府城主にした中村一氏が築いた石垣で、だから駿府城は「秀吉の城」と発表した。その誤りをこの連載でも指摘してきたところ、現在、静岡市は家康が築いた天守台石垣だが、秀吉の援助でできたと説明を修正している。

静岡市が天守台石垣を家康が築いたと理解を改めたのは評価したい。しかし秀吉の援助なしに家康は石垣を築けなかったとするのは、いかがなものかと思う。この時期は全国で石垣の城が続々と築かれていて、静岡市はそうした全国各地の石垣の城もすべて秀吉の援助でできたと考えるのだろうか。それはあり得ない解釈である上に、家康が浜松城時代から石垣を築いていたことを無視したあまりに強引な評価だと思う。

そして家康は大御所として慶長期に改めて駿府城を整備した。この天守台石垣も静岡市の発掘で見つかっていて、静岡市は慶長期の駿府城天守台石垣を「日本最大の天守台」と説明する。この説明を聞いて驚いた。またもや静岡市は評価を間違っているのではないか。

「駿州府中御城図」(大日本報徳社蔵)を見ればわかるように、駿府城の天守台と称するところは、天守台の上いっぱいに天守が建っていたのではなく、その中央に天守が建ち、空地を挟んだ石垣縁辺に多聞櫓を巡らせていた。つまり静岡市が天守台というところは天守台ではなく、学術的には天守曲輪であった。

例えば姫路城では大天守と小天守を連立した複雑な天守曲輪を構成した。この天守曲輪の一部として天守台があり、その上に天守が立った。静岡市はその天守曲輪と天守を混同して「日本最大の天守台」と説明してしまっている。慶長期駿府城のような天守曲輪をもつ城には家康の次男・結城(松平)秀康の福井県福井城があり、天守曲輪のなかに単立の天守が立った。

そして駿府城を越える天守曲輪も存在した。1619(元和5)年から家康十男・徳川頼宣の居城になった和歌山県和歌山城の「天守郭(くるわ)」は長辺80メートルを越える巨大さで、60メートル級の駿府城の天守曲輪を上回った。(城郭考古学者)


駿府城

戦国大名今川氏の居館があった場所に徳川家康が築城した。工事が完了した翌年、家康は江戸に転封される。関ケ原の戦いを経て将軍職を秀忠に譲った後、1607(慶長12)年から没する16(元和2)年までを隠居地として過ごした。後に駿府城代が置かれ、幕府の直轄地となった。


【千田嘉博のお城探偵】金箔瓦出土の駿府城 「秀吉の城」説を考える

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