《世界王者になる夢を抱いて上京したものの、ボクシングジムに通える環境ではなかったため、昭和40年12月、最初に就職した東京・五反田のねじ製造会社をやめた》
東京では住む家もないから、とりあえず田舎の栃木県粟野町(現・鹿沼市)に戻りました。正月を家族と過ごし、1月中に再び上京しました。家を出るとき、父が「何かあったらすぐに帰ってこい」といって、どこで工面したのか3千円を渡してくれた。涙が出るほどうれしかったです。私は東京に向かう東武線の車中で「今度こそ、何かを成し遂げるまで栃木には帰らない」と自分に誓いました。
浅草駅に着くと新聞を買い込み、求人欄を貪(むさぼ)るようにみました。「寮あり、賄い食付き、給料優遇」という日暮里の弁当屋が目にとまり、早速、電話をすると「あした面接に来て」と好反応。面接後、すぐに入寮し、仕事を始めました。
仕事は朝が早く、毎朝4時起きでしたが、夕方は5時過ぎには自由になれたので、ボクシングジムにも通えると思いました。ただ、憧れのファイティング原田さんが所属し、入門したいと願っていた笹崎ジムは、日暮里からだと電車を乗り継いで1時間はかかったので、睡眠時間を確保するには近いジムの方がいいかと迷っていました。
《そんなとき、「自分のボクサー人生で最初の幸運」という「ヨネクラジム入門」は、悪友との会話がもたらしたものだった》
弁当屋で働き始めてから1カ月ぐらいたったころ、粟野町の隣の西方村で番長をやっていた中学時代の悪友が、どこで連絡先を調べたのか「久しぶりに会おうぜ」と電話してきたのです。
悪友は東京・大塚のクリーニング店で働いていました。おごるというので日曜日に大塚の焼き肉店で1年ぶりに再会し、この間の苦労話などしていると、悪友は思い出したように「そういえば鈴木、どこのボクシングジムに入ったんだ」と聞いてきた。「まだ入っていない」と答えると、「何もたもたしてるんだよ。早く入れよ。やるのは本人なんだから、ジムなんてどこだっていいじゃないか。この近くにヨネクラジムってのがあるぞ。そこに行けよ」とまくしたてられました。私は悪友のこの一言で吹っ切れました。
後に「世界一のチャンピオンメーカー」とも称される名門ヨネクラジムは当時、大塚にあったのです(44年、目白に移転)。大塚は日暮里から山手線で4駅目(当時)と近いし、電車賃(往復40円)も節約できると思い、ヨネクラジムに入ることを決めました。入門したのは忘れもしない41年3月3日、16歳8カ月のときでした。
《入門して早速、ボクシングの厳しさを思い知った》
始めてから1週間ほどたったとき、ジムの松本清司トレーナーに「試しにやってみろ」と、数カ月前に入門していた先輩との1ラウンド3分間のスパーリングを命じられました。これが死ぬほどきつかった。1分で心臓が飛び出しそうになり、3分たったときには立っているのがやっと。10ラウンドや15ラウンドもやるチャンピオンたちは化け物かと思いました。でも松本トレーナーに「お前、どこかでボクシングやっていたのか」と聞かれ、「初めてです」と答えると「いい筋してるぞ」と褒められ、勇気が湧きました。
プロテストは2回目で受かりました。1回目の受験ではスパーリングテストで相手をノックアウトしてしまい、これが「荒っぽいけんかボクシング」と受け取られ、落とされました。
41年10月、日本ボクシングコミッションからライセンス証が届きました。写真入りで「C級ボクサー、鈴木有二」と印刷されていた。初めて自分の存在が公認され、居場所ができたと実感でき、うれしかったです。あとはガムシャラに走るだけでした。(聞き手 佐渡勝美)