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プロボクシング元世界王者・タレント ガッツ石松<4> 夢は世界王者、15歳で上京したが…

昭和40年、世界王者になることを夢見て上京したころ
昭和40年、世界王者になることを夢見て上京したころ

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《昭和40年3月、栃木県の粟野町立清洲中学を卒業。その2日後に上京した。目的はただ一つ、プロボクサーになって成功することだった》


中学卒業に際して、母は県内の鹿沼市か宇都宮市での就職を勧めた。父は何も言いませんでした。また、アルバイトで1度、仕事を手伝ったことがある粟野町の大工の棟梁(とうりょう)からは「住み込みで弟子にならないか」と声をかけてもらいました。

でも私には、東京に行くことしか眼中になかった。プロボクサーになってテレビに出て、できることなら世界チャンピオンにもなって金持ちになりたい。そんな思いでいっぱいでした。

私がボクサーを志したきっかけは、あの時代のヒーロー、ファイティング原田さんの試合のテレビ中継を見たことでした。まだ粟野町では全世帯にテレビが普及していなかった38年、その前年に19歳で世界フライ級王者になった原田さんの防衛戦を、テレビがある裕福な家に集まった大人たちに交じって私も観戦したのです。

そのとき、小耳にはさんだ大人たちの会話に私は驚嘆しました。「この試合の原田のファイトマネーは300万円だって」「すごいなー」。そんなやり取りでした。

300万円! 耳を疑いました。私の感覚では今の貨幣価値だと4000万~5000万円といったところでしょうか。当時、粟野町では200万円もあれば、かなり広い立派な家が建ちました。もちろん土地付きで。

家の事情で高校進学がかなわないことが分かっていた私にとって、希望の光を見いだした思いでした。「これだ。けんかなら誰にも負けないし、きっと俺に向いている」。地方にボクシングジムなんてない時代、東京行きは当然の成り行きでした。


《15歳の職工見習いとして東京・五反田のねじ製造会社に住み込みで就職した》


戦後ちょうど20年。日本が元気に活気づいてきたころだったから、注文も多かったらしく、とにかく忙しかった。出来上がったねじを自転車で配達することや機械の清掃もこなし、朝から夜まで昼飯のとき以外、ひと息つく間もなかった。ボクシングどころではない感じでした。

原田さんと同じジムに入門することを願い、所属する笹崎ジムが東横線の学芸大学駅近くにあることは調べて分かったのですが、時間がなくて行けなかった。また、あのころの自分にとって、ジムの月謝どころか往復の電車代を捻出することも決して容易なことではなかった。


《閉塞(へいそく)感に包まれたが、運命の歯車を動かしたのはまた原田さんの試合だった》


就職から2カ月が過ぎた40年5月、原田さんが2階級制覇を目指してブラジルの無敗の絶対王者、エデル・ジョフレに挑戦し、見事に判定勝ちで世界バンタム級王座を奪取したのです。この試合のテレビ中継を私は、社員食堂で社長や先輩工員たちと見ました。原田さんの勝利に興奮冷めやらない私は思わず、「みなさん、私、鈴木有二はいつの日か、ファイティング原田のような世界王者になってみせます! 見ててください」と叫んでしまったのです。

先輩たちは「いいぞ!」「頑張れ!」と拍手してくれました。その勢いで私は社長に「だから社長、夕方から私をボクシングジムに通わせてください」と懇願しました。しかし、反応は冷たいものでした。

「保護観察の身で何がボクシングだ。妙な夢は見ないで、早く仕事を覚えて一人前になれ」

この言葉に一気に熱が冷め、私は全身から血の気が引いていく思いでした。

当然、この会社はやめるしかないと思いましたが、住む家も他に仕事もない身。なかなか思い切れませんでした。「このまま生活に流されていては、夢も希望もない」と自分に言い聞かせ、黙って寮を飛び出して会社をやめたのは、あの年の12月でした。(聞き手 佐渡勝美)

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