《「非行」を重ね、中学2年の1学期も終わろうとしていたころ、宇都宮家庭裁判所栃木支部で保護観察処分を言い渡された。家裁からの帰途、付き添いの父と栃木駅近くの食堂で生まれて初めて外食をした》
昭和38年で、確かラーメン1杯60円ぐらいだったと思う。父は1杯しか頼まなかった。というか頼めなかった。食うや食わずの家で育った私にとって、初めて見るラーメンでした。
「ほら、ラーメンだ。早く食べろ」。父に促され、私はあっという間に平らげました。世の中にはこんなにうまいものがあるのかと感じるくらい、うまかった。父はスープが少し残っているのを確かめると、コップの水を丼に注ぎ、飲み干しました。さらに、丼に付いたスープの油分を指でふき取り、口に運んだのでした。
この光景を見て私は、父だって食べたかったであろうに、何で半分は残そうとしなかったのだろうと後悔しました。そして、自分だけではなく、父や母にもうまいものを腹いっぱい食べてもらえるように、改心して稼げる大人になろうと胸中で誓いました。父は35年前に亡くなりましたが、今でもラーメンを見ると、あのときのことを思い出します。
《2学期が始まると「もう『番長』はやめた」と宣言し、野球部に入った》
校長に「更生の意志を示すためにも何か部活動をしなさい」と諭されたからです。入るなら野球部しかありえなかった。何といっても野球が一番の花形だったし、栃木県ではその前年に宇都宮の作新学院が甲子園で史上初の春夏連続優勝を成し遂げ、一段と野球熱が高まっていたのです。
私が中学1年のときから野球部に入っていなかったのは、腹が減るからでした。何もしなくてもいつも空腹なのに、わざわざさらに腹が減るようなことはしたくないというのが、理由でした。途中入部だったので、レギュラーにはなれず、外野の控え選手で、試合の出番はいつも終盤での代打専門でした。
《1年余りの野球部生活だったが、自慢できる思い出が一つだけある》
当時、私が通っていた清洲中学がある粟野町の隣の(旧)鹿沼市に、物すごい投手がいると評判でした。その〝怪物〟がいる中学と、中学3年のときに対戦したのです。
なるほど中学生とは到底思えない剛速球を投げる投手でした。五月女豊君といい、3年後に鹿沼農商高校(当時)を甲子園出場に導き、ノンプロを経て昭和47年のドラフト1位で阪神に入団する投手です。
試合は、九回裏2死まで五月女君にノーヒットに抑え込まれ、ここで代打で出場したのが私でした。点差は3点以上あったと思います。ややバットを短めに持った私は、振り遅れ気味ながら剛速球をライト前に運び、無安打試合を防いだのです。ついでに二盗、三盗も決めましたが、次の打者が三振で試合は完封負けでした。
将来のプロ野球「ドラ1投手」からヒットが打てたことは、私にとって大きな勲章でした。この10年後に、世界王者になっていた私は五月女君と会う機会がありました。「あのときのことを覚えているかい」と私が聞くと「ああ、覚えているさ。『粟野の番長・鈴木』は鹿沼でも有名だったからな。いつ出てくるんだと待っていたんだ。ただ、盗塁は余計だったぞ。意味がないから牽制(けんせい)もしなかった」と話していました。財産ともいえるいい思い出です。
高校に進学し、野球も続けたかったのですが、それが無理なことは最初から分かっていた。でも暗い気持ちにはなりませんでした。そのころの私には、自分もこうなりたいと憧れる希望のヒーローが現れたのです。
19歳でプロボクシング世界フライ級王者になったファイティング原田さんです。(聞き手 佐渡勝美)