昭和52年4月20日、小林は甲子園球場のマウンドに立った。51年の10月13日、遠井に左翼へ〝代打ホーマー〟(第124話「甲子園の魔物」参照)を打たれて以来の先発である。
当時、小林は首脳陣から『甲子園のカモ』と呼ばれていた。阪神戦の登板は48年1試合、49年6試合(いずれも救援)。50年なし。51年5試合。初先発は9月15日の20回戦(後楽園)で4回、5安打1三振、3四死球、自責点3。田淵に31号3ランを打たれて敗戦投手。そして、甲子園での初先発が10月13日の25回戦。そんな小林を長嶋監督は阪神戦にぶつけた。
「ことしのコバは一味も二味も、去年より大きくなっています」
◇4月20日 甲子園球場
巨人 000 200 000=2
阪神 010 000 000=1
(勝)小林2勝 〔敗〕上田次1勝2敗
(本)高田③(上田次)
長嶋監督には確信があった。宮崎キャンプでのこと。紅白戦で小林が「左打者から三振を取れるボール」として考案した〝新フォークボール〟を披露した。
フォークボールはこれまでも投げていた。人さし指と中指で抜くように。ボールはシュート回転しながらフワリと落ちた。だが、これでは三振は取れない。そこで両指にしっかりと挟み、直球を投げるようにして投げた。するとボールは速いスピードでゆっくりと回転。打者の手前でストンと落ちた。
紅白戦で好投した小林は大興奮。
「監督、ボクが求めていたボールが見つかりました。もっと試したい。次に紅白戦で投げるときには、打者全員を左打者にしてください!」
さすがにこの要求は通らなかったが、小林は新たな〝武器〟を手に入れた。
苦手な猛虎たちを相手に小林は踏ん張った。八回無死一、二塁のピンチに立った。バントで送ろうとしたラインバックを新フォークボールで空振りの三振。二塁走者の中村勝が飛び出し2死一塁。勝ちを焦ったか続く田淵に四球。ブリーデンにも死球を与えて2死満塁。だが、巨人ベンチは動かない。
「この試合は小林と心中する覚悟でした。交代なんてとんでもない」
小林は長嶋監督の心に応えた。続く池辺を新フォークボールで遊飛に打ちとり、甲子園球場での初勝利を挙げた。
この52年シーズン、小林は阪神戦10試合に登板(先発9、救援1)し、5勝2敗(完封1、完投2)。そして翌53年は5勝0敗。カモから〝虎キラー〟に変身したのである。(敬称略)