《昭和24年6月、栃木県南西部の寒村、清洲村で4人きょうだいの次男として生まれた。清洲第二小学校に入学する前に村は町村合併で粟野町となり、小中学生時代を通じ、「粟野のスズキ(本名・鈴木有二)」といえば、近隣市町村でも名が知れたガキ大将、番長だった》
故郷の原風景は、一面に広がる田畑と山しかないですね。私の生家も畑に囲まれていたが、全てよその農家の土地で、一家の生活は苦しかった。
父は日雇いで近所の農家の農作業を手伝い、母は道路工事現場などで作業員をしていました。ただ、父は病気がちで家にいることが多かったので、兄姉、弟を含めて家族6人の生活を支えたのは、当時240円だった母の日当でした。
これでは腹いっぱい食べることなどできず、物心ついたころには、近所の子供たちとの格差をひしひしと感じるようになりました。小学生になると、農繁期には農家で子守のアルバイトをし、1日5円ほどの駄賃をもらったりしていたけれど、腹を満たすことはできなかった。
そこで「田畑や樹木からの収穫物はみんなのものだ」と勝手に自分に言い聞かせ、サツマイモや柿などを収穫前に拝借して食べたりしていました。仲間と駄菓子屋に行って、自分だけ菓子が買えないと、〝子分〟から「俺にもよこせ」と半分、分捕ったりしていました。でも、よその家の中のものを盗んだり、弱い者いじめをしたことはない。持っている人から応分に〝頂戴〟することには一理あると思っていました。
けんかは滅法(めっぽう)強かった。ガキ大将として生きていくための術(すべ)みたいなものでしたね。けんかは腕っぷしではなく、肚(はら)でするもの、みたいな極意を子供ながらに悟っていた気がします。
《清洲中学に入学すると、けんか三昧に拍車がかかった。「札付きのワル」のレッテルを貼られ、半ば濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)で保護観察処分を受けるはめになった》
中学に入ると早速、番長格の3年生から呼び出され、「お前が鈴木か。生意気やってないでおとなしくしてろ」と凄(すご)まれた。私は「お前こそ何様なんだ」と言い返し、頭一つ分大きい相手でしたが、怯(ひる)むことなく電光石火の急所蹴りから顔面パンチでぼこぼこにしてやりました。2年生になったころには、誰も歯向かう者はいなくなっていました。
私は大勢の子分を従えて、親分を気取っていましたが、厄介なことが起きた。子分たちが警察に補導されると、私に罪を着せようとするケースが頻発したのです。例えば、弱い者から金を巻き上げたある子分は警察で「金を持っていかないと鈴木に殴られるのでやった」と噓をつくみたいな感じです。
私もワルだったとは自覚していますが、弱い者いじめや金を巻き上げるようなことはしていない。でも警察は「あいつならやりかねない」と虚偽の供述を信じ、私は家裁送致されました。
中学2年のときの初夏、私は父に付き添われて宇都宮家庭裁判所栃木支部に出向きました。身に覚えのない罪状は一切認めませんでしたが、若い判事は「君は相当強情だな。だいたい、こんなに罪名が多い調書は初めて見た」と私を責めた。父は「この子は本当は家族思いのいい子なのです。二度とこのようなことはさせませんから、どうか穏便な処置を」と頭を机にこすりつけて懇願していました。
結局、少年院送りは免れ、私は保護観察処分となりました。家裁を出て、帰途に就くときに父が言った言葉が忘れられません。「お前は世間で言われているような悪い人間ではない。そのことは父ちゃんが一番よく分かっている」。救われた思いでした。父は信じてくれていた。あのとき、あの一言がなかったら、私は本当にぐれ切っていたかもしれません。(聞き手 佐渡勝美)