<特報>テレビ70年「現場も技術も〝最前線〟だった」 元フジテレビアナウンサー、露木茂さん

テレビの歩みを振り返る露木茂さん(寺河内美奈撮影)
テレビの歩みを振り返る露木茂さん(寺河内美奈撮影)

2月1日に放送開始から70年を迎えるテレビ。元フジテレビアナウンサーで、昭和47年の「あさま山荘事件」などを取材した露木茂さん(82)に、その歩みを顧みてもらった。

テレビ放送が始まったのは、僕が小学校を卒業して中学校に入る年でした。近所の電気店のショールームにテレビが画面にカバーをかけて飾ってあって、夕方になると電源を入れてくれるんです。通りかかった人や近所の人が集まり、うやうやしく鎮座するテレビ画面を大勢で見たのが、最初の出合いでした。

あまり語られないことですが、東京タワーができる前の東京には、3本の電波塔があったんですよ。日本テレビは千代田区二番町、NHKは同区紀尾井町、TBSは港区赤坂。3本の鉄塔を見ながら中学校に通ったのを覚えています。

衛星中継の衝撃

僕がフジに入局した38年は、テレビも10年がたって最初のドタバタが少し落ち着き、チャンネルもそろい、テレビというメディアがちょうど軌道に乗り始めた頃でした。その年の11月に、米ケネディ大統領が暗殺されました。それは大変なショックでしたよ。一つは世界が注目している若き大統領が暗殺されたこと、もう一つはそれがリアルタイムで衛星なるものを使って映像と音声が日本に送られてきたことです。新しい可能性がテレビの世界にはある、という期待感を強く持ちました。世界中のニュースがリアルタイムで伝わる時代が来ようとは思っていませんでしたから。

ニュースなどを担当した「小川宏ショー」では、さまざまな現場に行きました。グアムで横井庄一さんが見つかって現地でインタビューしたのと、長野県軽井沢町の「あさま山荘事件」の取材とは、同じ47年2月だったんですね。グアムは2月でも気温は30度ぐらいあり、病院に夜中、カメラマンと侵入して、ベッドに座っていた横井さんのインタビューを取りました。これは小川宏ショーで流したほかに、ソノシートというペラペラのレコードになって、当時の「週刊サンケイ」臨時増刊の付録にもなりました。

技術と進化した時代

次のあさま山荘事件は零下15度ぐらいの現場からの中継ですから、よく体がもったと思います。当初は2、3時間ぐらいで終わると思っていたのが、延々と続いて昼になり、午後になり、夕方になり、軽井沢はどんどん暗くなる。当時のカラーのテレビカメラは暗くなると何も写らないんですが、うちのカメラマンが持っていた予備の白黒カメラだけは高感度で結構写り、解像力が高かった。それで逮捕直後の犯人連行の様子を撮れたのは、フジだけだったんです。

そういう技術革新と、テレビ番組の進化とがうまくかみ合っていた時期があったんだと思います。衛星放送で世界のニュースが伝わり、より暗い所までテレビカメラが入って、見えなかったものが見えてきた、テレビというものは面白い、そして支持されるという好循環が、しばらく続いたのでしょう。

しかし、今の話になると、技術はどんどん進歩してインターネットやSNS(交流サイト)が登場したわけですが、テレビ局がこれをうまく利用する前に、一人一人の視聴者にこの技術が浸透していったんですね。そうすると、テレビを見る面白さで満足していた人たちが、情報を受け取るより発信した方が面白いということに目覚めてしまった。テレビが視聴率的にも、社会的評価でも以前より下がったのは、そのためでしょう。新しい技術がテレビを素通りして一般の人たちに浸透していったことが、テレビに元気がなくなり、あまり支持されなくなった一つの理由ではないかと思っています。

もう一度「面白い」と

日航機墜落事故(昭和60年、生存者救出をフジがスクープ)の御巣鷹山でも、一番早く現場の様子を伝えるんだという、最前線に自分がいる自負がありましたよ。今は事件や事故が起きると、現場に行くよりもまずパソコンを開いて、素人が撮った映像がアップされているのを探し、撮った人とコンタクトを取る。現場をいち早く伝えるという意識の持ち方が違ってきてしまっている。

テレビが最前線に戻るためには、これから新しい技術とどうやって仲良くしていくか、融合していくかが鍵になるのではないでしょうか。ドローンのような技術もあるし、まだまだテレビの面白さ、可能性はあると思うんです。テレビは面白いね、とみんなに思ってもらえる時代がもう一回来ることを期待しています。(聞き手 鵜野光博)

つゆき・しげる 昭和15年、東京都出身。38年、フジテレビ入社。「小川宏ショー」など報道番組、音楽番組、バラエティー番組のMCなどで活躍した。日航機墜落事故報道番組で日本新聞協会賞受賞。

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