小林繁伝

掛布に徹底した内角攻め 度重なった死球禍 虎番疾風録其の四(153)

広島戦で左手首に死球を受け、倒れる阪神の掛布=昭和52年4月17日、広島球場
広島戦で左手首に死球を受け、倒れる阪神の掛布=昭和52年4月17日、広島球場

もう少し掛布の話を続けたい。

プロ野球で「リストバンド」を初めて着けたのは掛布―といわれている。そのきっかけとなったのが、この昭和52年シーズンなのだ。

開幕のヤクルト戦で満塁ホームランを放った掛布は、翌日の2回戦で2試合連発。7日の中日戦でも3号ホーマーを放った。『若トラ颯爽(さっそう)』『田淵の後継者』と関西のスポーツ紙は大いに騒いだ。

だが、当時のプロ野球界はそんな若者の成長を黙ってみているほど甘くはなかった。「掛布を潰せ!」と徹底した内角攻め、のけ反らすボールを投げ始めたのである。そして4月17日の広島戦で「事故」は起こった。


◇4月17日 広島球場

阪神 040 303=10

広島 330 112=10

(六回降雨コールド)

(本)田淵③(高橋里)④(三輪)掛布④(高橋里)池辺③(高橋里)水谷①(谷村)衣笠②(深沢)内田順①(竹村)ラインバック①(三輪)ギャレット③(山本和)


両軍合わせて9ホーマーの乱打戦。掛布も二回の第1打席で高橋里から中堅バックスクリーンへ4号2ラン。そして四回の第2打席だ。松原の投じた2球目、カーブが掛布の右ひじを直撃した。痛さに耐えて掛布が一塁へ向かった。

〝死球禍〟は終わらなかった。続く五回の第3打席で今度は渡辺の速球が顔のあたりを襲った。

「危ない!」―両腕で顔をかばう。その左手首を直撃した。もんどりうって倒れ、痛みにもがき苦しむ掛布。ベンチから吉田監督や首脳陣が飛び出した。

すぐさま広島市内の病院でエックス線検査を受けた。診断は「右も左も単なる関節への打撲」。だが、掛布は「こんなに痛いなんておかしい。絶対に骨が折れている」と思ったという。

大リーグでは打者にはまず「死球(ビーンボール)の避け方」を教える―といわれた。日本のプロ野球でも球団によって教えたり、教えなかったり。後年、筆者は阪急の福本にこんな話を聞いた。

「頭付近に来た球は最後まで見たらアカン。すぐに目を切る。見てしまうとボールが怖くなって、そのあとのバッティングに影響する。クルリと背中を投手の方へ向けて避ける。これなら当たっても背中や。ヒジや手首を骨折することはない。ちょっと練習が必要やけどな」

当時の阪神では教えていなかったのだろうか…。 (敬称略)

■小林繁伝154

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