貧しいがゆえに
《心臓の壁に、生まれたときから五円玉大の穴があいた奇病をもった六歳の少女が、鹿児島の農村にいる。医師の診断では、手術をしなければこの少女の生命は、あと二、三年だという。だがこの大手術の費用は約五十万円。貧しい少女の家庭は国民健保にも加入していないほどで、とても金策はつかない》
昭和41年6月7日付のサンケイ(産経)新聞朝刊社会面、トップ記事の書き出しだ。見出しは、《貧しいがゆえに 死なねばならぬか》
一人で積み木遊びをする少女の写真とともに、記事は「わたしらは、貧しいために最愛の娘を見殺しにしなくてはならないのでしょうか」という両親の悲しい嘆きを伝えている。
反響は大きく、少女に必要な治療費の何倍もの善意が弊社に寄せられた。手術は成功し、少女は生き延びた。両親や寄託者の意向をくみ、この寄付を基に心臓病の子供を救う基金を設立し、少女の名から「明美ちゃん基金」と名付けられた。
長年にわたり国内外の多くの子供の命を救ってきた基金は昨年末、表記をひらがなの「あけみちゃん基金」に改めた。より親しまれ、覚えやすく、一般性を持たせるようにと。
この機に、「明美ちゃん」をめぐる当時の経緯をおさらいしておきたい。前にも書いたことはあるが、何度でも書く。
産経新聞社会部
社会部デスクの曽我興三が当時34歳の遊軍記者、細谷洋一に「これやってくれ」と「ごみ箱にあった手紙」を手渡した。
田舎にいる5歳のめいが重い心臓病に苦しんでいるが、手術を受ける費用がないと、切々と訴える内容だった。
だが差出人は匿名で、手掛かりは少女の姓名と、「川崎市登戸」の消印のみ。警視庁で「三億円事件」などを担当した細谷は、少女の珍しい姓から鹿児島出身者とあたりをつけ、登戸周辺の交番を片端から回って巡回連絡簿からついに投書の主にたどり着く。個人情報保護法なんて法律があれば到底なしえなかった仕事であり、少女の命を救うこともできなかった。
おじの話から細谷が鹿児島に飛ぶと、県南端の農家の土間で少女は一人静かに遊んでいた。両親に取材した話を東京の社会部に電話で吹き込み、これを受けた同期の遊軍記者、馬見塚達雄が記事にまとめた。
術後半年間の入院後、少女は元気になり、小学校に通った。母親から「人の恩を忘れてはいけない」と言われて育ち、「病気と闘っている人のお世話をしたい」と看護師を志した。
専門学校を経て夢を実現させると、そこには自らと同じ境遇の子供たちの姿があった。
「手術したら、お姉さんみたいに元気になれるんだね」
こうして自らが、病気と闘う子供たちの希望となった。
手術から25年後、2児の母ともなった明美さんは、細谷と面会した。日本工業新聞社の社長となっていた感激屋の細谷は、「あのときはこちらも娘が生まれたばかりで、どうにかしたかったんだ」と話し、目を真っ赤にはらして涙を流した。
それから4年後、細谷は63歳で亡くなった。
明美さんも「一度はごみ箱に捨てられた手紙を探して、私のところに来てくれたそうです」と話したことがあるが、これは少し事実と違う。
後年、馬見塚が、曽我と同期の社会部デスクだった山路昭平に確認した。「ごみ箱」とは、読者の投書や情報のメモをしまう、デスク席の引き出しを指す符丁だった。「そんな大事な手紙を捨てるはずがあるか」と怒られたらしい。昔の新聞記者は往々にして偽悪ぶった、ややこしい符丁を使いたがる。
夕刊フジを発行するフジ新聞社(当時)に筆者が入社したころ、山路は社長、細谷から馬見塚へと編集局長が継がれ、それぞれに叱責もされ、薫陶を受けた。曽我も含め、4人ともすでに鬼籍に入った。
無償の功名主義
冒頭の記事に、細谷や馬見塚の署名はない。
産経の大先輩記者でもある司馬遼太郎は、新聞記者の理想像をこう書いている。
《自分の仕事に異常な情熱をかけ、しかもその功名は決してむくいられる所はない。紙面に出たばあいはすべて無名であり、特ダネをとったところで、物質的になんのむくいもない。無償の功名主義こそ新聞記者という職業人の理想だし同時に現実でもある》(べっぷ いくろう)