鈴木邦男さんが夢想した「右翼版全共闘」

鈴木邦男さん
鈴木邦男さん

新右翼活動家で一水会顧問の鈴木邦男(すずき・くにお)さんが今月11日、誤嚥性肺炎のため死去したことが27日、分かりました。鈴木さんは、平成20年10月17日付の産経新聞大阪本社版の連載記事「さらば革命的世代」のなかで、昭和40年代に盛り上がりを見せた全共闘運動について語っていました。以下、当時の記事のアーカイブ配信で、肩書などは当時のままです。

弱小組織リーダー

「全共闘の連中には数え切れないほど殴られた。ただ、正直あこがれる部分もあった」

全共闘の先駆けともいわれる早大闘争がピークを迎えた昭和41年、後に新右翼団体「一水会」を創設する鈴木邦男さんは政経学部の3年生だった。新左翼系の学生集会が数千人規模で行われるのを尻目に、わずか20人程度で細々と気勢を上げた新右翼グループを率いていた。

「左翼全盛の時代で右翼学生は1%もいなかった。議論の場はあったが、論破もされたし、暴力もふるわれた」

母親が信奉していた宗教団体「生長の家」の影響で、愛国心を大切にしたいという意識が強かったという鈴木さんは「そうでなければ、考えもせずに全共闘の側に加わっていたと思う。右翼か左翼かなんて最初の人間関係がきっかけになるものです」

税務署に勤める父親の転勤で、幼少期は東北地方を転々として過ごし「高校三年生」が大ヒットした昭和38年、早大に入学。政経学部を卒業後、大学院を経て今度は教育学部に入った。都合8年の学生生活を送ったのは学生運動を続けるためだった。

“弱小勢力”の指導者として、全共闘運動の誕生から成長期を目の当たりにした鈴木さんは「バリケードの外から見ても本当に革命が起きるのではないかと思うほどの盛り上がりだった。それはたまらないと思った」とした上で、こう付け加えた。「今や愛国心や憲法改正を語る人が多い世の中になった。だがみな安全圏で言っているに過ぎない。当時は本当に命がけだった」

三島由紀夫

安田講堂事件から4カ月後の昭和44年5月13日。定員約500人の東大教養学部900番教室は、すし詰め状態だった。東大全共闘が主催する討論会にノーベル文学賞候補といわれた作家、三島由紀夫さんが登場したのだ。

右翼思想家としても知られていた三島さんを全共闘があえて講師に招いたのは「つるし上げて論破してやろう」という狙いがあったとされるが、三島さんは臆(おく)することなく“敵陣”に乗り込んだ。

激しいヤジが飛ぶ中、黒い半袖シャツを着た三島さんはほおを紅潮させながらやや早口で思想を語り学生たちを圧倒した。そして「君たちが一言、天皇陛下と言ってくれたら、手をつないでも良いのに」と訴え、討論をこう締めくくった。「私は諸君の熱情だけは信じます」

当時、全共闘側から論戦を挑んだ一人で評論家の小阪修平さん(故人)は著書「思想としての全共闘世代」の中で、三島さんの勇気をたたえてこう述べている。「たぶんぼくらは彼のなかに戦後民主主義的知識人や大学当局がもたない誠実さをみていたのだ」

三島さんが自衛隊市ケ谷駐屯地で壮絶な割腹自殺を遂げるのは翌45年11月。この年からサンケイ新聞(現産経新聞)の販売局で働いていた鈴木さんはあまりの衝撃に仕事に手がつかなかったという。

「正直、学生時代は三島さんのことをたくさんの右翼思想家の一人ぐらいにしか思ってなかったが、あの事件を機に、本物だと思うようになった」

日本刀で切腹した三島さんは、私兵組織「楯の会」のメンバー、森田必勝(まさかつ)さんの介錯を受け、森田さんもその場で腹を切って死亡した。鈴木さんには、森田さんを学生時代にオルグして右翼の世界に引き込んだ因縁もあった。2人の行動に刺激を受けた鈴木さんは「仕事なんかしている場合じゃない」と退職して、一水会を立ち上げた。

「三島さんが1人で死んだのなら、ただの自殺。森田の存在があったからこそ、その行動が思想的な行為として意味を持った」

新左翼と“共倒れ”

鈴木さんは学生当時、討論やデモを通じて愛国心の強い右翼学生を増やし、「右翼版全共闘」をつくろうと思っていたという。両者の主張は全く正反対だが、その手法は新左翼的ともいえる。鈴木さんは「全共闘はある意味ぼくらの先生だったんです」。

従来の右翼には、日章旗を掲げ、街宣車からけたたましい軍歌を鳴らすイメージもあった。鈴木さんの発想は斬新だと受け入れられ、一般右翼とは区別して“新右翼”と呼ばれるようになったが、全共闘が下火になるにつれて、「敵」を失った右翼学生も内輪もめを始めて衰退し、結局共倒れのような形になってしまった。

今、鈴木さんは新左翼と新右翼の間で“共闘関係”が結べるのではないかという期待感を持っている。三島さんの天皇陛下をめぐる発言に代表されるように、共通点もあると感じているからだ。

そして、かつて新左翼学生らが、米軍の原子力空母の入港阻止闘争を繰り広げていた際、それを見つめていた一般市民が、こう語っていた姿が忘れられないという。「学生たちが太平洋戦争でアメリカに立ち向かって敗れた日本兵とだぶってみえた」

鈴木さんは、今でもその言葉の意味を繰り返し考えている。「あのとき日本を背負って闘ったのは、全共闘だったのかもしれない。つまり彼らが日本のナショナリズムを代行したのではないかと。右翼がしたかったことをやつらがやったとも思うんです」

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