遠洋を航行する船の急病人やけが人のもとに医師や看護師を派遣し、応急治療しながら搬送する-。〝海のドクターヘリ〟ともいわれる「洋上救急」制度だ。広大な領海や排他的経済水域(EEZ)を擁する世界屈指の海洋国家ながら、かつて日本の周辺海域は「無医村状態」だった。昭和60年に世界で初めて海の救急医療体制が整備され、これまでに救助したのは約1千人に上る。第3管区海上保安本部の羽田航空基地(東京都大田区)で27日、洋上救急に携わる医師らの訓練が行われ、報道陣に公開された。
「挿管の準備します。ルーカス2分計ります」。狭いヘリコプターの機内。27日に実施された訓練では、医師や看護師が救急救命士の資格を持つ海上保安庁の隊員と連携し、「ルーカス」と呼ばれる自動的に心臓マッサージを施す機械や点滴の手順を声を出しながら確認していた。
洋上救急では海保の巡視船やヘリ、自衛隊の航空機などに乗り込み、激しい騒音や揺れの中で救命治療に当たる。羽田特殊救難基地の林充隊長は「最前線まで医師や看護師と一緒に出動する。こうした訓練は重要だ」と強調。参加した日本医科大学千葉北総病院の小田有哉医師は「訓練を通じて洋上救急の大変さを理解し、より早く患者さんを治療できる方法を模索していく必要がある」と語った。
洋上救急は航行中の船舶で傷病者が発生し、医師が緊急加療が必要と判断した場合、海保や自衛隊の協力を得て医師や看護師を現場に派遣する制度。事業主体の公益社団法人日本水難救済会が海保など関係機関と調整している。現場では海保の隊員が傷病者をつり上げて収容する。
日本水難救済会によると、昭和57年に宮城県石巻市沖約1300キロの洋上を航行していた漁船で船員が心筋梗塞を発症。巡視船とヘリで医師を搬送する初の洋上救急が実施され、人命救助と船員福祉の観点からこの仕組みを全国に広めようとの機運が高まった。
日本の領海を含めたEEZは領土の約12倍に相当する約447万平方キロにも及ぶ。同会の遠山純司(あつし)理事長は「洋上救急制度が発足する前は、はるか洋上の船舶で傷病者が発生しても救うすべなく、多くの尊い人命が失われていた。それだけに、この制度には発足当時の関係者の熱い思いが凝縮されている」と語る。
制度の構築は一筋縄ではいかなかった。医師らの負担が大きいことに加え、洋上で万が一の事故が発生しても補償がなかったためだ。海保や当時の社会保険庁、海運・水産関係者、医療関係者が協議を重ね、出動する医師らに協力費を支給し、傷害補償保険の費用を負担する仕組みを構築したという。
制度は60年10月に発足。これまでに965件の出動要請があり、998人の傷病者を搬送。医師・看護師延べ1830人が救命治療に当たってきた。現在、全国145の医療機関が洋上救急に協力している。
洋上救急では医師らが往診するため、1回の出動で22万円の費用がかかる。外国船の場合は別途10万円の協力金も必要だが、海保関係者は「はるか洋上では、陸上のような処置がすぐにできない。船員にとって重要な制度だ」と話す。
昨年1月28日には、東京・八丈島沖を航行するマグロはえ縄漁船が「24歳の乗員が右手のしびれと頭痛を訴え、嘔吐(おうと)を繰り返している」と118番通報。医療機関の助言で脳出血か脳梗塞の疑いが判明し、洋上救急が実施された。遠山理事長は「洋上救急は世界で唯一の誇るべき制度。今後とも関係機関が協力し、海で日本の経済や国民の生活を支える船員や漁業者らの貴い命を守り続けていく必要がある」と強調した。(大竹直樹)