小林繁伝

金も出すが口も出す…名物オーナーの死去 虎番疾風録其の四(150)

大洋の球団オーナーを務めた中部謙吉氏
大洋の球団オーナーを務めた中部謙吉氏

小林繁の「年俸騒動」の最中、昭和52年1月14日、球界に〝悲報〟が駆け巡った。『大洋の父』といわれた大洋ホエールズの中部謙吉オーナーが、心筋梗塞のため入院先の病院で死去したのである。

中部謙吉は明治29年、貴族院議員・中部幾次郎の次男として兵庫県明石市で生まれた。船乗りを志し、14歳のときに父が経営する「林兼商店」(大洋漁業、現在のマルハニチロ)に入社。常務―副社長をへて昭和28年に社長に就任。大洋漁業を世界最大の漁業会社に育て上げた、日本の水産業界の第一人者である。

社長就任と同時に大洋ホエールズのオーナーに就任。当時の大洋は万年最下位チーム。そこで中部は35年、当時『魔術師』と呼ばれ、西鉄の監督を退任したばかりの三原脩を監督に招いた。すると6年連続最下位だったチームがセ・リーグ制覇を果たし、日本シリーズでパ・リーグの覇者「大毎オリオンズ」に4連勝。「日本一」に輝いたのである。

「いやぁ、永田さん(大毎オーナー)に悪いことしたなぁ。一回ぐらい負けてやればよかった」

この言葉は永田オーナーを大いに怒らせた。永田は采配を振るった西本幸雄監督を叱責。結果『バカヤロー事件』が起こって西本は大毎を退団。そして阪急のコーチへ―と歴史は動いていった。

中部オーナーは気骨のある〝明治の男〟である。こんな逸話が残っている。ある雑誌で女性と対談したときのこと。

「わたしは2度結婚しました。前の家内に6人。あとの家内との間には3人の子供があります」

「9人も!」と女性が驚くと―

「9人も―じゃない。そのくらい努めないとダメなんだよ」と豪快に笑い飛ばしたという。

1月14日、その日は東京・丸の内の大洋漁業本社で新入団選手の入団会見が行われていた。新しい「球団歌」や「応援歌」が流れる中、横田球団社長が涙声で「オーナーが死去されました」と選手たちに伝えた。

葬儀の日、報道陣に囲まれた三原(当時、日本ハム球団社長)はこう語った。

「世間の人は中部さんの〝温情〟が大洋を弱くしている―といいますが、私はそうは思わない。非常に直観力に優れ、経営者として、野球人として情熱をかたむけ続けた人です」

金も出すが口も出す。選手をわが子のように愛した名物オーナーとの悲しい別れだった。享年80。(敬称略)

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