日曜に書く

論説委員・斎藤勉 「ミスター・ランズベルギス」

2007年6月、モスクワの自宅を訪れたプーチン大統領(右)と握手するソルジェニーツィン氏(ロイター=共同)
2007年6月、モスクワの自宅を訪れたプーチン大統領(右)と握手するソルジェニーツィン氏(ロイター=共同)

堅忍不抜の反体制作家

「全体主義の暴力に抵抗しうるのは、テコでも動かぬ意思の堅さしかない」。ソ連の反体制ノーベル文学賞作家、ソルジェニーツィン氏(2008年に89歳で死去)の信念だった。文豪は1975年、米国亡命中の講演で「これこそ堅忍不抜の精神だ」と、ソ連の精神病院で「強制治療」を受け「死の淵」にあった当時33歳の作家、ブコフスキー氏の逸話を披露した。

当局はある日、同氏に「よろしい。お前を自由にしよう。西へ行きたまえ。そして何もしゃべるな」と提案する。青年は答えた。「いいや、そうはいかない。私はあなた方が精神病院にぶち込んだ人々について書いてきた。彼らを全部釈放してくれるなら、西へ行きましょう」

同氏は獄中でなお徹底抗戦を続けたが、国際的知名度が上がったことで当局は翌76年、厄介払いの形で強制追放を余儀なくされ、同氏は英国に出国、2019年に76歳で死去した。

プーチン露大統領のウクライナ侵攻から約11カ月。こちらも徹底抗戦を覚悟するゼレンスキー大統領と国民はブコフスキー氏を彷彿(ほうふつ)させる。今月初めにプーチン氏が提案した「36時間クリスマス停戦」をウクライナ側はのっけからウソだと見抜き、「ロシアが占領地から全て撤退して初めて停戦できる」と毅然(きぜん)と切り返した。戦況は次第にプーチン氏を追い詰めつつある。

電光石火の「独立宣言」

年明けに観(み)たウクライナ育ちのロズニツァ監督の映画「ミスター・ランズベルギス」も「堅忍不抜の精神」を如実に教えてくれる。1990年3月11日、音楽家出身のランズベルギス氏(90)はソ連・リトアニア共和国の初代最高会議議長に選出されるや、電光石火でソ連初の「独立宣言」採択へと突き進む。同氏が2年前から率いた草の根の独立運動を一気に結実させた瞬間だった。これが91年12月のソ連崩壊への引き金だ。

その後、クレムリンの軍事的圧力や経済制裁に耐え抜き、91年9月、ついに独立を正式承認させるまでを映画は描く。

独立への最大の試練が91年1月13日、ソ連軍が首都ビリニュスのテレビ塔を急襲、14人の犠牲者を出した「血の日曜日事件」だった。次の標的と目された最高会議には「独立死守」の民衆が集結して、さながら「革命前夜」の緊迫状態にあった。90年のノーベル平和賞受賞者、ゴルバチョフ・ソ連大統領はスターリンやヒトラー同然の「血塗られた独裁者」に擬せられ、国際的信頼と権威は失墜した。

映画は4時間8分もの長編ドキュメンタリーだけに、モスクワから事件現場に入っていた私も当時は見逃していた重要映像が多い。極め付きはこれだ。

「決断の時が来た。独立か、否か。ここに留(とど)まりたくない者は去れ。残る者はその時からリトアニア兵となる」

ランズベルギス議長名で側近が最高会議内の数十人の若者を前に決然と檄(げき)を飛ばすと、全員が即座に志願兵に変身し、「力と命を惜しまず、国家と独立を守ります」と宣誓した。同議長は「非暴力・不服従」主義者と信じられていたが、「武力抗戦も辞さず」の覚悟をも示唆するシーンだった。ゴルバチョフ氏は結局、最高会議突入を断念せざるを得なかった。

「ソ連の姿をしたロシア」

ランズベルギス氏は事件の10年後に現場を再訪した私に「侵略者はソ連の姿をしたロシアという残虐な『悪の軍事超大国』だった。わが方は信念と正義を追求する『精神の大国』で、リトアニア独立闘争は世界規模で重要な闘いだった」と語った。

スターリンはウクライナでは故意の飢餓(ホロドモール)で最大600万人を抹殺した。リトアニアなどバルト三国を、ヒトラーとの独ソ不可侵条約の密約に従って40年に強制併合、数百万人をシベリアへの収容所送りなどで大量虐殺した。

共産党独裁体制に対するウクライナとバルト三国の歴史的怨念は国民の心底にまで染み付いている。しかし、ウクライナが今、侵略に抗して踏み出した「非共産化」と「非ロシア化」は、リトアニアではすでに30年以上も前に実現していたのだ。

ランズベルギス氏は映画の中で独立達成に込めた思いをこう吐露した。「われわれは信じていた。(独裁・恐怖体制という)悪と不正は数年、数十年続いたとしても、それは一時的であり、永遠には続かないと」

そう信じて、ブコフスキー氏はかつて闘い、ゼレンスキー氏は今日も戦い続けるのだと確信する。(さいとう つとむ)

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