話の肖像画

歌手・石川さゆり<12>「脇役」時代が生んだ「芸」の原点

デビュー直後、昭和48年5月ごろ
デビュー直後、昭和48年5月ごろ

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《1970年代から80年代にかけて音楽番組全盛だった。「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)、「ザ・ベストテン」(TBS系)、「ザ・トップテン」(日本テレビ系)などテレビをつければ音楽が流れた。〝花の中三トリオ〟に後れをとっていた石川さんは〝脇役〟だった…》

みなさん(花の中三トリオ)は番組を掛け持ちして飛び込みなんですよ、本番直前に…。でも私は音リハ(音合わせリハーサル)、カメリハからスタジオに入っていました。(忙しい歌手は)マネジャーの人がその代わりをやっていた。でも私はリハから「歌います」って。

みんな一緒に会場にいたんですが、彼女たちはメインのところで出演…。私は話題曲コーナーとかに出て、う~ん、そういう感じ(格差)はありました。でも歌えることが楽しくって。

《もっとも〝脇役〟環境が、好奇心と向上心の時間を生む》

逆に、私は人より自分の時間があったんです。この世界、最初からアイドルでスターになっちゃった子は、事務所に全部管理してもらっていた。すべてのスケジュールをね。私も恵まれていないわけじゃなかった。大きくデビューしたけど、そこからグ~ンと伸びていったわけじゃない。すると、みんな売れていた子に力を入れるでしょ。事務所も私まで手が回らないというか、手薄になる。管理されてない時間というか、そのときテレビ局にいると「面白い」「これはすごい」と思いながら、個人プレーができたんですね。

(事務所から)これやりなさい、あれを…というのはなかった。自分の心の赴くまま。子供の頃から「これできないかな」って挑戦する性格でしたから。

《二葉百合子さんと三橋美智也さんらに〝入門直訴〟…》

番組で二葉百合子さんとご一緒させていただいた。「岸壁の母」(作詞・藤田まさと、作曲・平川浪竜、昭和29年発売)は以前、菊池章子さんで話題になって、二葉さんが歌謡浪曲で2度目のブレークをされる。そばで聞いていて「かっこいい」と思って、直接お願いして浪曲のお稽古をさせていただいたんです。

大阪の新歌舞伎座のステージ(51年10月)では歌謡浪曲「九段の母」(作詞・石松秋二、作曲・能代八郎、14年発売)を歌わせていただいた。二葉さんに何度も稽古をつけていただき、浪曲の構成もしていただいた。まだ「津軽海峡・冬景色」を出す前、18歳のときでした。

後に「歌芝居」を始めた。近松門左衛門作で大経師昔暦を題材にした「夢の浮橋」(作詞・吉岡治、作曲・弦哲也、平成14年発売)という歌を作り、浪曲や義太夫を取り入れてやったりしましたが、そのたびに教えてもらいました。民謡ブームがあったとき、三橋美智也さんには三味線のお稽古、発声とかでも何度も通わせてもらいました。

もちろん仕事もこなし、学校(東京・中野の堀越高校)にもちゃんと通ってました。そのときは役に立つようなものでなくてもいい。ただ自分が興味があるもの、やってみたいと好奇心で動いたものが自分の体に染みついて、例えば三味線は後に歌や芝居をやっていくうちに、すごく有効になっていった。自分に芸事を身に付けたい、やってみたい、自分の体を通してみたいと思うことがそうなる。義太夫とか講談とかみんなそうです。

後に「そういえばあのとき」と思うことがたくさんあって、じゃあ今度こんなアルバムを作ろう、こんなステージをやろうって。奇想天外な突拍子もないことをやってきたのではなく自分がやってきた小さなものがたまって、ある時期に一つの表現をさせていただいてきたんです。

自分が見聞きしたもの、日本のすてきなものとして心に引き継ぎながら、でもどこかで革新的な心を持って、時代の空気感を感じる作品を届けたいって。思えばあの時代が、いまの石川の原点になっていたんです。(聞き手 清水満)

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