話の肖像画

作詞家・松本隆<10>広がる詞「ひと夏の伊香保」体験

昭和56年ごろ
昭和56年ごろ

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《昭和50年に発表された太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」がなぜヒットしたのか。松本さんは40年代後半の世相をあげた。当時、「日本列島改造論」で上昇志向となっていた世の中は、48年の第1次オイルショックにより一気にしぼみ、物質主義的価値観が崩された。そんな中、「木綿のハンカチーフ」という安価な商品が、新たな価値観を生み出す上で象徴的存在としてはまった、という見方だ。さらに松本さんは続ける》


第1次、第2次と1970年代には2度オイルショックがあり、人々は物質主義を見直さなければならないと気づきました。でも80年代に入ると、カネとモノがあふれる飽食の時代に突入。そして、90年代初頭にバブルが崩壊する。結果的に「木綿のハンカチーフ」はそういう世相も先取りすることになったと思います。「木綿のハンカチーフ」に象徴される「素朴なもの」の方が、本当は価値があるんだよ―。そんなメッセージを後の世にも伝えることになったんです。

それはモノに限らず、人間関係や人の心にもあてはまります。田舎に残った女性が、カネ、モノ、欲望にあふれた大都会・東京に出て、忙しくも楽しい日々を送る恋人を「そんなことよりもあなたの方が大事」「体に気をつけて」と気遣う。地方から都会に出てきた多くの人たちは、この歌を自分自身に重ね、それぞれに思うことがあったと思います。


《実は、この曲につながる伏線的な作品を、松本さんは「はっぴいえんど」時代に作っている。アルバム「風街ろまん」に収録されている「夏なんです」。都会派の松本さんにしては珍しく、田舎の情景を描いた曲である》


僕は東京・南青山で生まれ育ったので、地方のことはあまりよくわからないんです。あるディレクターから「松本君の詞は都市部では売れるけど、地方では弱いんだよね」といわれました。そうなのかと思って、できる限り地方で生活する人々の視線を意識して書いたのが、「木綿のハンカチーフ」でした。

でも、思い起こすと、僕は子供のとき、一年中東京にいたわけではなく、夏休みになると、田舎で過ごすことが多かったんです。母の実家が群馬県の伊香保温泉で、ひと夏の間、ずっとそこに預けられることがよくありました。1学期が終わるころ、おじいちゃんが「隆、行こう」と迎えに来て、2人で汽車に乗って伊香保まで行く。そして、明日から学校が始まるという日に母が迎えに来る。そんな感じだったので、意外と子供時代の真夏の東京の記憶がないんです。

そんな子供時代の思い出を書いたのが「夏なんです」という曲でした。畦道(あぜみち)、ギンギンギラギラの太陽、鎮守の森、蟬(せみ)の鳴き声…。すべて伊香保で見た情景です。母の実家のすぐ上に神社があって、神主さんとも顔見知りでした。伊香保は石段のまち。当初はそのことも書いていたんです。でも、そうするとイメージが固定化されてしまうので、歌詞からは抜きました。

この詞を書いた経験は「木綿のハンカチーフ」で生かされたと思います。


《太田さんの次のシングル「赤いハイヒール」(昭和51年)も地方の目線で書いた詞だった》


「赤いハイヒール」は逆パターン。今度は女の子が上京してきて挫折し、故郷へ帰る話を書きました。「木綿のハンカチーフ」のアンサーソングなんです。

「木綿のハンカチーフ」でヒットして、周りからは「どうせ1発で終わる」といわれていました。それで奮起して。「その期待を裏切ってやろうじゃないか」「2発目も絶対売ろう」と、作曲した筒美京平さんと誓いました。そういうことは京平さんも真剣にやるし、戦うんです。そして「赤いハイヒール」もヒットしました。そういうところは筒美・松本コンビの強みでしょう。(聞き手 古野英明)

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