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作詞家・松本隆<7> 「はっぴいえんど」解散、作詞家の道へ

昭和56年ごろ
昭和56年ごろ

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《昭和47年、伝説のバンド「はっぴいえんど」が解散した。それまでも松本さんは、奏者としてドラムを担当する傍ら、「はっぴいえんど」の楽曲の作詞を担当し、さらに他のミュージシャンにも詞を提供していたのだが、解散後は、作詞一本の職業作詞家としての道を歩み始めることになる。ただ、最初から作詞活動に専念していたわけではなく、ここでも紆余(うよ)曲折があった》

「はっぴいえんど」が解散してしまったころ、子供ができました。家族が増えるというのにバンドがなくなってしまった。生活のために、何か新しい仕事を探さなければならなくなりました。

何をしたらいいのだろう、どんな仕事なら稼げるのだろうか…。いろいろと模索した末、作詞だったら仕事になるだろう、という考えにいきついたんです。

でも実を言うと、解散当初は音楽プロデューサーになろうと思っていたんです。実際、1年の間に南佳孝さんの「摩天楼のヒロイン」、あがた森魚(もりお)さんの「噫無情(ああむじょう)(レ・ミゼラブル)」、岡林信康さんの「金色のライオン」など、アルバム4枚をプロデュースしました。この4枚を作っていたときは、ほとんど365日間働き通しでしたが、非常にクオリティーの高い、自分自身でも大満足の作品に仕上がりました。実際、音楽ファンの評価も高かったんです。

ところが、そんな働きづめにもかかわらず会社は大赤字。評価は売り上げに結びつきませんでした。こんな調子では家族を養っていけない―。そう思って、一念発起し、「作詞家になる」と決めたんです。

そう決心したとき、何人かの友人に宣言しました。一人は岡林信康さんのマネジャーをやっていた高木照元さん。この方は、東芝EMIのプロデューサーだった新田和長さんと仲がよかったので、紹介してもらいました。

新田さんは、当時売り出し中だった人気グループ、チューリップの担当プロデューサーで、「大ヒットした『心の旅』の次に出す曲が暗礁に乗り上げているんだ」といって、僕に詞を書いてくれないか、と依頼してくれたんです。うれしかったですね。そして書いたのが「夏色のおもいで」でした。

《48年10月にリリースされた「夏色のおもいで」は大ヒットした。これが松本さんの職業作詞家としてのデビュー作だった。この曲が、当時すでに作曲家としての地位を確立していた筒美京平さんの目に留まり、のちに松本・筒美の黄金コンビが誕生することとなる。松本さんはこの曲を手掛けたのと同じ時期に、人気アイドル、アグネス・チャンさんの楽曲も手掛けてこちらも大ヒット。作詞家として一気に注目を集めることになった》

「作詞家になる」と宣言したもう一人は、フリーのレコーディングエンジニアやディレクターをしていた吉野金次さんでした。どうか詞を書かせてください、とお願いしたところ、彼が担当しているアグネス・チャンさんのアルバムの詞を書いてほしい、とオファーしてくれました。

それで、「アグネスの小さな日記」というアルバムに数曲分、作詞して提供したんですけど、その中の「ポケットいっぱいの秘密」がシングルカットされたんです。このアルバムにはいろんな大物作詞家がかかわっていて、誰の詞がシングル盤になるかを競っていましたが、巨匠たちを差し置いて、無名だった松本隆が選ばれてしまったんです。

作詞家を志してから、いきなり2曲連続ヒット。幸いにも、職業作詞家としての下積みをせずに仕事を始めることができました。(聞き手 古野英明)

〈8〉につづく

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