昭和51年10月10日からの阪神―巨人の〝最終決戦〟。当時のマスコミは、後楽園での3連戦を『大江戸決戦』、甲子園での2試合を『なにわ決戦』と呼んだ。なかなかにうまい命名である。
11日の大江戸第2戦は巨人が堀内、阪神は江本の先発。下馬評は「阪神有利」。この年、堀内はここまで阪神戦8試合に登板(先発6、救援2)し、チーム打率・325と打ち込まれ、掛布にはなんと7割。田淵には・385、4ホーマーを浴びていたのだ。
◇10月11日 後楽園球場
阪神 100 000 002=3
巨人 300 100 05×=9
(勝)堀内14勝6敗 〔敗〕江本14勝9敗
(本)王㊽(山本和)
4―1と巨人リードの八回、堀内が先頭の中村勝に右前打、掛布に四球を与えてピンチを迎えた。続くラインバックに2球続けてボール。ここでベンチから長嶋監督が飛び出してきた。誰もが「交代」と思った。だが、長嶋監督は―
「ホリ、ここで打たれても同点じゃないか。思い切って攻めのピッチングをしろ。逃げちゃいかん」と逆に励ました。
「はい、大丈夫です」と堀内は力強く答えた。
実は堀内は10月に入って、大好きなお酒を断っていた。記者たちが理由を尋ねると「いまさらだけど、自分に何か苦しみを与えれば、必ずピッチングに役に立つと思ったんです」と照れくさそうに話したという。それはふがいない自分への叱咤(しった)だった。
その気迫がボールにこもった。ラインバックを中飛、田淵を左飛、ブリーデンを空振りの三振に切って取って、思わずマウンドでガッツポーズ。
勝負はここで終わった。八回、巨人は3人目の山本和から張本の左中間二塁打などで3点。そして王が山本和の内角シュートを右翼ポール直撃の本塁打。前日に続いてベーブ・ルースの記録を抜く715号ホーマーを放った。
「堀内の攻略は紙一重なんだ。ボールに手を出しさえしなかったら堀内は自滅したのに。ウチの選手にもっと〝選球〟の気持ちがあれば…。ワンちゃんはボールなんか振らんもんなぁ」と山内打撃コーチは嘆いた。
51年シーズン、阪神のホームランは193本、巨人は167本。だが、得点は巨人の661点に対し阪神は602。一発に頼り、いかにタイムリーが少ないかの証明だった。(敬称略)