《昭和40年代半ばから後半にかけ、「日本語はロックのメロディーに乗らない」とする英語派と、「ロックも自分たちの言語でやらなければ意味がない」とする日本語派による「日本語ロック論争」が巻き起こった。お互い、一歩も引くことはなく、創刊間もない音楽雑誌「ニューミュージック・マガジン」で誌上座談会が開かれるなどして、それぞれの主張は広く世に伝えられた》
ニューミュージック・マガジンの編集者のうち、2人ほどがこちらの味方についてくれました。最初のアルバム「はっぴいえんど」が雑誌内ランキングの上位に入ってしまったんです。当然、英語派の方たちはおもしろくない。「無名バンドが何を生意気な」と。それで公開討論というか、座談会になって、音楽業界の重鎮たちが大勢集まりました。
それに対してこちら側はというと、なぜか細野(晴臣)さんが欠席して、僕と大滝(詠一)さんの2人だけが参加したんです。大滝さんは相手が誰であれ臆せずものを言える人。僕は両者の間に入って「まあまあ」となだめる役で。まあ、おもしろかったですよ。
そのとき僕はまだ19歳。そんな若造に30代、40代の重鎮たちが「お前たちがやっていることはけしからん」と束になって責め立ててくる。でも、僕らがやろうとしていることは正しいはず、という確たる信念をもっていました。
《「日本語ロック論争」は、「はっぴいえんど」が46年に発表したアルバム「風街ろまん」で、ロックのメロディーに日本語の歌詞をうまく乗せることに成功し、一定の成果を収めたと評価されたことにより、一区切りついたとされる。以降、議論は沈静化していった》
英語か日本語かは趣味の問題だとは思うんですが、コピーばかりだと進歩はしないという考えは曲げませんでした。
ロックをやっている人たちの多くは、かつてGS(グループサウンズ)でやっていました。英語のロックをレコードで出しても売れませんから、レコードはグループサウンズ風の歌謡曲で出し、ステージやライブでは新しい洋楽のコピーをやっていたんです。食べていくためにはレコードを売らなきゃいけないから、仕方なく日本語の歌を歌う。筋が通っていないと思いました。
僕たちは日本語で、ビートルズや(ローリング・)ストーンズと同じレベルで音楽を表現したいと考えていました。その結果、シングル盤が売れなくても仕方ないと最初からあきらめていました。僕たちの考えの正しさは、後の歴史が証明してくれたんじゃないかと思います。
《日本語ロック論争が収束した後、日本語の歌詞、あるいは日本語と英語が交ざった歌詞は当たり前になっていく。矢沢永吉さん率いるキャロルが48年に発表した、日本語と英語の詞が「ちゃんぽん」となった「ファンキー・モンキー・ベイビー」がヒットするなど、商業的な成功も収めるようになっていくにつれ、もはやロックを何語で歌うかは問題外になっていった。この論争がなければ、日本の音楽界の発展は10年、20年遅れていたといわれている》
その結果、日本の音楽は独特の進化を遂げました。世界基準とは違う、ガラパゴスミュージックだと揶揄(やゆ)されることもありました。でも、今は逆にそれが新鮮だと、世界中から注目を浴び、「はっぴいえんど」を含む1970年代、80年代の日本の音楽が再評価されているのです。
とにかく、あのころは自分たちが正しいということを証明しようと必死でした。僕なんか、高校生から大学生になってまだ間もない、まだ何もしていない20歳の若造でしたからね。自分のことながら立派だったと思います。(聞き手 古野英明)