阪神に移籍した小林から「王の偉大さ」についてよく聞かされた。
不振に陥ったとき「休養」が一番の脱出方法―と分かっていても、練習で打って打って克服したこと。医者が止めても「休んではいられない」と球場にやってきては長嶋監督を困らせていたこと。
「でもね、本当の王さんの凄さは、そんな状態でも数字をきっちり残したこと。そんな選手がいるか?」
昭和51年、開幕前に左ふくらはぎの肉離れを起こした王は左くるぶし痛、そして腰痛に苦しんだ。だが、そんな状況でも打率・325をマークし、49本塁打、123打点の「二冠王」に輝いた。
10月9日の試合が雨で流れ、阪神との〝最終決戦〟は移動日なしの5連戦(後楽園3、甲子園2)となった。その初戦、後楽園球場を埋めた5万人の大観衆は王の凄さを目の当たりにした。
◇10月10日 後楽園球場
阪神 200 002 000=4
巨人 200 000 200=4
(神)古沢―山本和
(巨)ライト―小林―新浦―加藤
(本)王㊻㊼(古沢)
決戦ムードに硬くなったライトが一回に2失点。するとその裏、一塁にヒットの張本を置いて古沢から右翼へ46号同点2ラン。そして、再び2点のリードを奪われた七回には、またしても古沢から右翼ポール際へ通算714号。ついに〝野球の神様〟といわれたベーブ・ルースの本塁打記録に並んだのだ。
「小学生のころ『打撃王』という映画を見て、雲の上のベーブ・ルースよりルー・ゲーリッグに憧れた。そのボクが雲の上の人に追いつけるなんて…」
714号の記念ボールを拾ったのは千葉市で精肉店を営む川名さん親子だった。実はその日、長男の和男君(当時13歳)が「ホームランボールを拾う夢を見たから球場へ連れて行って」とせがんだ。仕方なくお店を休み、球場へ行ったがすでに入場券は完売していた。
残念…。諦めて帰ろうとしたときだ。見知らぬ人が「急用ができて帰るから、これをあげる」と外野席券をくれた。席は右翼ポール際。そして七回、王の2本目のホームランが目の前に飛んできたのである。
このあと柳田の二塁打、ジョンソンの左前タイムリーが飛び出し、試合は4―4の引き分け。吉田監督は「勝ちたかった…」と悔しがった。そして〝夢のお告げ〟のホームランボールとバットは「野球体育博物館」(現在の野球殿堂博物館)に展示されることになった。(敬称略)