《慶応大に進学し、高校生時代に結成したバンド「バーンズ」のメンバーらと東京・南青山のディスコでアルバイトで演奏していた松本さん。そのバンドに欠員ができ、メンバーを補充することになった。そこで声をかけたのが、当時、立教大生で、後に盟友のひとりとなる、2歳年上の細野晴臣さんだった》
細野さんは、僕よりちょっぴり大人で、車も持っていました。割と家が近くて、バイトの帰りなんか、よく車で送ってもらっていました。
細野さんは立教大で「天才ベーシスト」と呼ばれていましたが、もともとはフォークソングをやっていて、アメリカのフォークグループ「キングストン・トリオ」のコピーバンドみたいなことをやっていたそうです。当時からオリジナル曲を作ることに興味があって、いくつか作品を聞かせてもらったことがあります。
彼と一緒に演奏活動をするようになってからは、海の家みたいなところで演奏したり、長野・軽井沢にある、昔の貴族の館みたいな小さなホテルで演奏したりと、活動範囲が広がりました。
それで、大学2年になったときだったでしょうか、細野さんから「GS(グループサウンズ)の生き残りの『ザ・フローラル』というバンドがあって、ベースとドラムのメンバー2人が抜けるというんだ。僕と松本とで入らないか」と誘われたんです。2人でオーディションを受けて入りました。ちなみに、このときに抜けたメンバーのベース担当は、僕の中学の同級生でした。
《「ザ・フローラル」は、オーディションによりグループが結成された米国のロックバンド「ザ・モンキーズ」のファンクラブ日本支部のメンバー公募で選ばれた5人グループで、昭和43年に結成。2枚目のシングル「さまよう船」などでGSサウンドを前面に出していた。メンバー2人がやめた後はGS路線をやめ、元のメンバーの小坂忠さん、菊池英二さん、柳田ヒロさんの3人に、新加入の松本さん、細野さんの2人を加えた5人で44年、新生ロックバンド「エイプリル・フール」として再スタートを切る》
このバンドは、新宿のディスコティックで「ハコバン」で演奏していました。「ハコバン」というのはですね、ライブハウスなどのことを「ハコ」というでしょ、その専属バンドとして毎晩演奏することです。これで演奏力がきたえられ、この時期に僕のドラムも細野さんのベースもかなりうまくなったと思います。
そして4月にレコーディングをするということになりまして。それで「エイプリル・フール」というバンド名になったんです。レコードは4月に録音して秋に発売される予定でした。
でも、「エイプリル・フール」はうまくいきませんでした。レコーディングをした後、目指す音楽の方向性がバンド内で二分してしまったんです。結局、レコード発売と同時に解散コンサート。僕の本格的音楽人生の始まりは、いきなり波瀾万丈(はらんばんじょう)でした。
《その後、細野さんとともに新しいバンド結成に向けて動き出すが、なかなかうまくいかなかった》
当初は、僕と細野さん、小坂忠の3人と、当時まだ高校生だった鈴木茂の4人でやるつもりでいました。茂は当時、「天才ギター少年」と呼ばれていて、細野さんが目をつけていた逸材です。
ところが、新しいバンドを結成するのも難航しました。あるブロードウェーミュージカルの日本版に忠が参加することになり、バンド活動を続けられないと離脱してしまったんです。僕と細野さんは途方に暮れました。(聞き手 古野英明)