遣唐留学僧として唐に渡り、多くの仏教経典をわが国にもたらした飛鳥時代の高僧、道昭(どうしょう)(629~700年)が活動したのは、東アジアの情勢が緊迫し、国内の社会不安が高まっていた時期だった。その中で10年余り、「天下を周遊した」(続日本紀)という道昭。仏教の民間布教を進めながら土木事業を展開したとされるが、その具体的な動向が近年の研究で徐々に明らかになっている。活動は近畿を中心に広い範囲に及んでいたことが分かり、その背景には「重苦しい社会不安にさいなまれる人たちの救済」という思いがあったとみられている。
板状の仏像
道昭が「天下周遊」に出たのは、天智元(662)年に飛鳥寺の禅院が完成した後だったという。10年余りに及んだとされる周遊。その動向で文献上、明らかなのは宇治橋(京都府宇治市)と山崎橋(同府大山崎町)の架橋だが、文献資料からは、それ以外ほとんどわかっていなかった。
その道昭の動向を知るうえで注目されているのが、「火頭形塼仏(かとうけいせんぶつ)」の存在。塼仏は粘土で型抜きし、焼き上げた板状の仏像で、寺院の内壁にはめこんだりして、まつられていたとみられている。その塼仏の中で、上部がとがった形のものを火頭形という。