師走の「師」に引っかけて「先生」の話を書いてみたい。まずは英文学者で評論家、エッセイストでもある外山滋比古(とやま・しげひこ)の『日本語の素顔』から警世の一節を引こう。《昔から、「先生」と言われてきたのは、学校の教師、医師、弁護士など「シ」のつく職業である。ところが、いつのまにか政治家が「センセ」の大手にのし上がってきた》
政治家のなかにも代議士のようにシのつく人たちはいるから、政治家が先生と呼ばれるのには特段の不思議はないのかもしれない。一説によれば、明治期の政治家の家には住み込みで働きつつ政治を学ぶ秘書的な存在の書生がいて、彼らが政治家を先生と呼んだことから政治家に対する敬称としての「先生」が定着したという。令和のいまでも先生と呼ばれている政治家は多かろうが、だからといって一般市民や役所の職員までもが先生と呼ばねばならない筋合いは全くない。
大阪府議会はこの秋、議員に対する敬称の「先生」は議員と府民、議員と府職員の間に心理的な上下関係をもたらし、議員が特別な存在であるとの勘違いを助長しかねないとして、「先生」を使わないことを決めた。こういった動きが全国にも広がるのか、興味深く見守っていきたい。