開業100年、支線の廃線も節目 「長野電鉄」沿線の今をたどる

開業100年を記念したイベントでは特急「スノーモンキー」に行列ができた=10月22日、長野県山ノ内町の湯田中駅(原田成樹撮影)
開業100年を記念したイベントでは特急「スノーモンキー」に行列ができた=10月22日、長野県山ノ内町の湯田中駅(原田成樹撮影)

長野市と山ノ内町の総延長約33キロを結ぶ長野電鉄が今年、開業100年を迎えた。今年は新橋-横浜間で鉄道が本開業して150年とあって首都圏ではイベントがめじろ押し。一方の長野電鉄は2支線がそれぞれ廃線10年、20年という節目でもあるにも関わらず、ひっそりと記念イヤーが終わろうとしているだけに、勝手ながら沿線や支線の廃線跡などを歩いて「百寿」を祝福した。

生糸からスキー客へ

起源である河東鉄道は大正11(1922)年6月に須坂(須坂市)-屋代(長野市屋代)間で営業を開始した。河東は千曲川(信濃川)の西岸を走る省線信越本線に対して東岸を意味する。当時の須坂は富岡(群馬)や岡谷(長野)に並ぶ生糸の生産地で、屋代から信越本線に乗り入れることで貿易港の横浜まで鉄路でつながった。

河東鉄道はその後、大正14(1925)年には木島(飯山市木島)まで延伸、翌年には千曲川をまたいで東岸まで結ぶ須坂-権堂(ごんどう、長野市)間も開業。昭和2年には湯田中(山ノ内町)まで、3年には長野駅まで延び完成形を整えた。

長野-湯田中間は、国内有数のスキーリゾート、志賀高原(山ノ内町)の発展を支え、近年は温泉に入るサル「スノーモンキー」目当ての外国人観光客の足にもなった。

一方、100年もたつと社会経済環境は大きく変わる。自家用乗用車の普及で通勤や買い物利用が減り、地方鉄道は軒並み冬の時代を迎えた。赤字路線であることを主な理由として、信州中野-木島間(木島線)は平成14年廃止、須坂-屋代間(屋代線)は24年に廃止。長野-湯田中間に経営資源を集中させたわけだが、新型コロナウイルス禍の影響を受けていない平成31年3月期連結決算でも、長野電鉄の輸送サービス事業セグメントはかろうじて黒字を確保した状況で、今後も予断を許さない。

創立は2年前だが…

企業としての河東鉄道は、開業2年前の大正9(1920)年に創立。長野電鉄によると、「令和2年に大々的に創立100年を祝う予定だったが新型コロナウイルス感染症の拡大で開催がかなわなかった」という。

今年は10月22日に、開業100年を祝して全線を100円で乗れるイベントが開催された。普段であれば長野-湯田中間を利用すると、大人で運賃1190円、特急料金100円、座席指定ならさらに300円が必要になる成田エクスプレスや小田急ロマンスカーを新装した特急にも100円で乗れるとあって、湯田中駅では、ファンらによる長い行列が見られた。長野電鉄は急遽(きゅうきょ)、臨時便も運行して対応。乗れた人たちには、良い思い出になっただろう。

廃線跡に郷愁

屋代線の廃線跡には盛り土やトンネルなど10年前の面影が残る=長野市(原田成樹撮影)
屋代線の廃線跡には盛り土やトンネルなど10年前の面影が残る=長野市(原田成樹撮影)

2つの廃線上には、トンネルや盛土、鉄橋など10年前、20年前の面影が今も残る。長野電鉄によると、「木島線の土地は一部を売却、屋代線は沿線自治体に譲渡した」という。単線で幅もさほど広くなかったため、車道への転換には適さないところが多いようだが、旧屋代線の一部では歩行者・自転車道に姿を変え、学生が通学に利用する姿もみられた。

屋代線の跡を利用した公園。後ろに須坂駅が見える=長野県須坂市(原田成樹撮影)
屋代線の跡を利用した公園。後ろに須坂駅が見える=長野県須坂市(原田成樹撮影)

旧木島線では、夜間瀬川を渡る鉄橋が現存し、そばを平成27年に延伸開業した北陸新幹線の列車が疾走していった。終着の木島駅は駅舎をバスの待合室などに再利用していたが、すでに解体。鉄路だった場所には太陽光パネルが並び、一大発電所に姿を変えていた。(原田成樹)

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