《太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」、松田聖子さんの「赤いスイートピー」、近藤真彦さんの「スニーカーぶる~す」…。歌謡曲全盛の昭和の時代、作詞家として数多くのヒット曲を手掛け、以降も平成、令和と駆け抜けた松本隆さんが、一昨年、作詞家活動50周年を迎えた。昨年にはトリビュートアルバム「風街に連れてって!」をリリースし、記念コンサートも。今もなお現役で活動を続けている》
もうやりたいことはやり尽くした、あとは死ぬだけ。そう思って静かな余生を過ごそうと10年ほど前、関西に移住してきたんですが、周りがそうはさせてくれませんでした。
このところは50周年ということもありましたが、日本武道館での記念コンサートをはじめとするさまざまなイベントやトリビュートアルバム制作、あちこち引きずり回されました。全然放っておいてくれない。静かな余生どころではありません。
ただ、この2、3年で、思うところがありました。まずは、昭和61年に松田聖子さんへ提供した「瑠璃色の地球」が2年前、思わぬ形で再注目を集めたことです。
《「夜明けの来ない夜は無いさ―」で始まる「瑠璃色の地球」。世界中が新型コロナウイルスの脅威にさらされていた令和2年、松本さんは「世の中に希望を届けたい」と、プロ、一般市民を問わず参加してこの歌を歌いつないでいくことを呼びかける動画を動画投稿サイト「ユーチューブ」にアップした。200人以上が呼びかけに応じ、同曲を歌いつないだ動画は、明るい未来を示す歌として大きな反響を呼んだ。同年の年末には松田聖子さんがNHK紅白歌合戦に出場し、この曲を歌った》
この歌は36年以上前、環境問題が社会問題化したときに作りましたが、社会全体が沈んでいるときに、みんなを元気づける「魔法の歌」になったんです。東日本大震災のときもそうでした。自然発生的にこの歌が口ずさまれる。
そのうち、ママさんコーラスや学校の合唱などでも歌われるようになり、これって松田聖子の歌なの?といわれるぐらい定着しました。そうなるともう、聖子さんの手も、作った僕自身の手も離れ、完全に独り歩きしている。小さかった子供がどんどん成長して大人になり、やがて誰もが知る存在になった、そんな感じで国民ソングに育ったんだなと思います。
《自分が書いた楽曲が時代を超えて人々に歌いつながれ、定着する、あるいはもともと楽曲を提供したのとは別のアーティストが歌うことによって、一味違った作品になる―。昨年、リリースしたトリビュートアルバムや東京の日本武道館で行った記念コンサートでも、松本さんは同様の思いを抱き、テレビなどのインタビューで「光栄の極み」と話していた》
新しい、古い、というのは、もうあまり関係なくなっていますね。まだまだ僕がやることはある。今や音楽のメディアはレコード、CDだけではなく、ダウンロード、サブスク、SNS…とたくさんあるので、地方からでも発信できるわけで、何も東京にいなければならないということはないんです。
そんなわけで、静かな余生というのは諦めました。先日、長年の友人のひとり、南佳孝と会ったときにそんな話になったのですが、もうこれは死ぬまで戦うしかないなと。死ぬ前の日まで詞を書くんじゃないかと思います。それが僕の使命みたいな気がしています。(聞き手 古野英明)
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【プロフィル】松本隆
まつもと・たかし 昭和24年、東京都港区出身。44年、慶応大在学中に細野晴臣さん、大滝詠一さん、鈴木茂さんとロックバンド「はっぴいえんど」を結成し、ドラムを担当したほか作詞も手掛けた。47年の解散後は作詞家となり、50年に「木綿のハンカチーフ」で注目を集め、以降は「ルビーの指環」「風立ちぬ」などヒット作多数。提供した曲は2000曲以上にのぼる。