遣唐留学僧として唐に渡り、多くの経典を持ち帰った飛鳥時代の高僧、道昭(629~700年)。続日本紀」は「和尚(道昭)は天下を周遊して、路傍(ろぼう)(道のほとり)に井戸を掘り、各地の津済(しんさい)(渡し場)に船を設け、橋を造る」と、多彩な社会事業を展開したことを記している。それは伝道と社会事業の一体的な展開だったとみる向きもある。
宇治橋の架橋
道昭は8年に及ぶ唐への留学から帰国した年の翌年(662年)、留学前まで修行していた飛鳥寺(奈良県明日香村)の東南隅に禅院を建設。仏教の教えを広める活動をしていたが、その後、禅院を出て各地を巡りながら、布教した。その過程で、さまざまな事業を行ったとみられている。そのひとつとして、続日本紀は「山背(やましろ)(京都府南部)の宇治橋(宇治市)は和尚(道昭)が造ったものである」としている。
宇治橋をめぐっては、架橋の由緒を記した石碑(宇治橋断碑)の断片が、橋近くの寺院から発見されている。その碑には、宇治川の強い流れと渡河の困難さに加え、僧の道登(どうとう)が大化2(646)年に架橋し、人や動物が渡れるようにした、と書かれている。
道登は道昭同様、飛鳥寺で修行していたことが知られており、いわば先輩と後輩。だが、社会事業の活動時期は十数年のずれがあったとみられる。諸説はあるものの、道登が建設した宇治橋をその後道昭が改修したか、架け替えたとの見方が有力になっている。