今月放映の林修先生のテレビ番組が「鎌倉の偉人たち」を取り上げます。偉人たちの一人が源実朝で、ぼくは彼についてのロケに行ってきました。場所は神奈川県秦野市の金剛寺。この禅寺は、長く実朝の菩提(ぼだい)を弔ってこられました。お寺のすぐ近く(かつては境内だったそうです)には実朝の首塚があって、秦野市の史跡に指定されています。実朝の首塚が鎌倉以外の場所にあることは朝日新聞の別刷りの特集で読んだ覚えがあったのですが、それが金剛寺である、という認識は恥ずかしながらありませんでした。今回、ロケをしたことで改めて考えたことを書いておきたいと思います。
実朝は甥(おい)の公暁によって暗殺されました。これはご存じの通りです。「親の敵(かたき)はかく討つぞ」と大音声を上げて実朝を斬殺した公暁はその首を取り、肌身離さず持っていました。それで三浦義村邸に赴き、「さあ、実朝は始末したので私を将軍にせよ」とアピールするのですが、その時も首を手放さなかった。これに対し義村は、長尾定景以下5人の武士に命じて公暁を討たせました。ここでは義村と公暁の間にどんな密約があったか、などについてはふれません。
問題は首です。実朝の首がここで消えてしまっているのです。やむなく北条政子や義時は首のない遺体を棺(ひつぎ)に納め、源氏の墓所である勝長寿院(今は廃寺)に葬(ほうむ)った、と『吾妻鏡』は記します。
ここからは伝承の世界のストーリーです。公暁を討った5人の武士の中に、武常晴という人物がいた。彼は何を思ったか、公暁が持っていた実朝の首を持ち去り、鎌倉から少し離れた秦野の地(鎌倉から北西に約30キロ。車で1時間ほど)にやってきた。この地を領していた波多野氏に首を預け、手厚く弔うように依頼した。波多野氏はその願いに応えて、首を埋葬し、金剛寺を建立して実朝の菩提を弔った、というのです。これは伝説です。確実な証拠はありません。実朝の首塚という五輪塔を掘り起こしたこともない。でも、調べていくと、妙にこの話、つじつまがあっていくのです。
まずは武常晴という武士。彼については、全く史料がありません。「武」という名字についても、系図などはない。競馬の武一族のご先祖さまは、大隅国の有力武士、禰寝(ねじめ)家の一族と思われますので、直接の関係はありません。横須賀市に「武」という地名がありますので、そこを名字の地とした武士でしょう。近くには三浦義明の木像を祀(まつ)る満昌寺もあります。横須賀は三浦一族の本拠地ですので、常晴はじかに将軍に仕えていた御家人ではなく、三浦義村の郎党だったのではないでしょうか。
では次に波多野という家。そもそも読みは「はたの」か、「はだの」か。土地にちなむなら「はだの」でしょうが、そこはこだわらずにいきましょう。それで、この家なのですが、伝統的に源氏とつながりのある家なのです。
関東武士の中で、源氏との縁が深い家、というと、まずは山内首藤(やまのうちすどう)家。これは別格、Sランクです。源氏の当主の第一の乳母を出し、当主の第一の郎党を出す。そもそも鎌倉は山内首藤家の本拠、山内荘の一部なのです。源頼朝の父、義朝は若き日に京都で行き詰まり、南関東に活路を見いだすべく、供一人のみを連れて東下します。その供、つまりはもっとも信頼できる義朝の第一の郎党が、山内首藤家の鎌田正清でした。
Sランクに次ぐAランクが2家。一つが三浦半島の三浦家です。源氏のスーパースター、八幡太郎義家の頃からの家来で、義家の東北での戦いに従軍しました。前述の義朝は、関東に到着するとまずは三浦家の厄介になり、そこから南関東に勢力を伸ばしていきます。義朝の長子、悪源太義平は三浦で生まれ(母は三浦氏の娘とも、遊女とも)、育てられています。
もう一つが波多野家です。この家の祖は下級官人で佐伯氏の人。義家の父の頼義が相模守に任じられたとき、代官として相模にやってきました。それで秦野、いや当時は波多野の地に土着して武士化し、土地の名を名字としたのです。義朝は波多野家の娘も妻とし、次男の朝長が生まれています。また、京都から下向してきて波多野家の婿となっていた下級官人が中原親能(ちかよし)です。彼はやがて頼朝に仕え、幕府を代表する文官となりました。弟の大江広元(親能が鎌倉に呼び寄せたか)とともに「13人の合議制」に名を連ねています。
ここからは本当に想像なのですが、実朝の首を手にした武常晴は、ほとほとイヤになったのではないか。実朝の血縁である北条氏も、自分の主である三浦氏も、鎌倉の御家人たちも、それぞれに欲望に身を焦がし、実朝を死に追いやった。また公暁という若者を利用し、弊履のごとく捨て去った。実朝の首は誰の手に渡ろうが、政争に利用されるだろう。それはあまりに気の毒だ。鎌倉を離れ、静かに供養できぬものか。
そう彼が考えたとしたら、誰を頼るでしょう。源氏と深い縁を持つ家。山内首藤家がはじめに思い浮かんだでしょう。でも、当主の経俊は頼朝挙兵時に敵に回り、しかも許された後も失策続きで没落した。頼るに足りない。では三浦…は今回の公暁暗殺の張本人で、これまた頼れない。残るは波多野家か。波多野もいったんは頼朝の敵となったが、許された。力は減じたが、零落したとまではいえない。そうだ、波多野に首を持っていけば、静かに供養してくれるのではないか。武常晴はそう考え、鎌倉を離れ、波多野へと馬を走らせた。ぼくはそう、想像するのです。(次週に続く)
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■実朝の首塚
武常晴は波多野氏を頼り、首を埋葬した。その後、波多野忠綱は実朝の帰依を受けていた僧、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)(頼朝・政子の夫婦からも信任され、政子が出家するときには戒師(かいし)を務めている)を招き、首塚近くに金剛寺を建てた。その際、木造であった首塚の五輪塔を石造に改めたという。その木造の五輪塔は、現在、鎌倉国宝館に収蔵されている。また金剛寺の本堂には実朝像が安置され、本尊の阿弥陀如来は実朝の念持仏とされる。
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【プロフィル】本郷和人
ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。