江沢民氏死去

「3つの代表」理論で経済発展促進 派閥で後任妨害も

2009年10月、中国建国60年のパレードを天安門の楼上から眺める(左4人目から)胡錦濤国家主席、江沢民前国家主席、温家宝首相ら要人(新華社=共同)
2009年10月、中国建国60年のパレードを天安門の楼上から眺める(左4人目から)胡錦濤国家主席、江沢民前国家主席、温家宝首相ら要人(新華社=共同)

30日に死去した中国共産党の江沢民元総書記は、「3つの代表」理論で企業家の入党を認め、党を労働者・農民の階級政党から国民全般を代表するエリート政党に転換させた。江政権下で市場経済化は進展、対米関係も改善して世界貿易機関(WTO)への加盟を果たすなど国際的な存在感を示した。一方、反日教育を進めて対日関係は悪化したほか、派閥を形成して後任の脚を引っ張った。

1989年6月の天安門事件で趙紫陽総書記が解任されると、江氏は最高実力者、鄧小平氏の指名で党政治局員から飛び級で総書記に就任。同年11月に中央軍事委員会主席、93年3月に国家主席にも就任し、党と軍、国家のトップを一人が務めるという現在まで続く統治の体制を確立した。

江氏は鄧氏の方針に基づき、92年の党大会で「社会主義市場経済」を提起し、市場経済化を正式に決定。中国は92年から江氏が国家主席を退任する2003年まで、年7%台後半から14%台の高度経済成長を遂げた。「3つの代表」理論は02年、総書記退任時の改正で党規約に明記された。

1995~96年には、台湾の総統直接選に合わせて大規模な軍事演習を実施、第3次台湾海峡危機を招いた。だが、クリントン米政権(当時)は対中関係の悪化を望まず、江氏は97年10月に国家主席として初めて訪米を果たし、「米中二極時代」を印象付けた。クリントン大統領の98年6月の訪中では、「台湾独立を支持しない」などの「3つのノー」をクリントン氏から引き出した。97年7月に香港返還を実現、2001年12月にはWTO加盟を果たすなど、国際的な舞台での中国の存在感を高めた。

一方、市場経済化の中で国家や党の求心力を維持するため「愛国主義教育」を推進。「抗日戦争」に関する施設を多数建設し、世論の対日感情は悪化した。自身も1998年11月の訪日時の宮中晩餐(ばんさん)会で歴史問題に言及し、日中関係にしこりを残した。

97年2月に鄧氏が死去すると、名実ともに最高指導者に。党内で出身地の上海に由来する「上海閥」を形成した。2002年11月に後任の胡錦濤指導部が発足した後も04年9月まで中央軍事委員会の主席を譲らず、胡氏の軍掌握が遅れて政権の不安定化につながった。(田中靖人)

中国の江沢民・元国家主席が死去 社会主義市場経済を推進 習体制発足を後押し


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