「和尚(道昭)は元興寺(飛鳥寺)の東南隅に禅院を建てて住んだ。この時、国中の仏道修行を志す人たちが、和尚に従って禅を学んだ」(続日本紀)
遣唐留学僧として唐に渡り、仏教を学んだ道昭(629~700年)は、帰国(661年)の後に、飛鳥寺(奈良県明日香村)の一角に禅院(東南禅院)を建てたという。いつ建設されたのか。「続日本紀」には明示されていないが、「日本三代実録」(平安時代)は「帰朝後壬戌年(662年)」と、帰国翌年のこととしている。
経典普及の役割
道昭は唐で師事した玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の勧めもあり、相州(現在の河南省)・隆化寺の慧満(えまん)から禅を習学しており、その教えを国内に初めてもたらした。国内初の禅院である飛鳥寺の禅院には多くの仏道修行者が訪れ、道昭から禅を教授されたという。ただ、このときの禅は初期の禅で、鎌倉時代(12~14世紀)以降に広まった禅とは異なることが多かったとみられている。
禅院の役割は、禅の修行の場だけでなく、道昭が唐から持ち帰った仏教の経論を収蔵・保管し、教えを広めるためのものだったとみられている。後の平城京遷都(710年)のさい、禅院は平城京(奈良市)に移転、飛鳥寺から独立した禅院寺となったが、「続日本紀」は「(禅院寺には)経論がたくさんあり、それらは筆跡が整い、誤りがない。すべて和上(道昭)が唐から持ち帰ったものだ」とする。