日曜に書く

論説委員・森田景史 柔道家・牛島辰熊の手紙

文は人なり。古い言い回しの枠から、その手紙は大きくはみ出していた。

文字は人なり?

7枚の便箋にしたためられた文字は、一つ一つが書き手の気随気ままに大小の形を変えている。初めは行間におとなしく納まっていたものが、後段になるにつれ罫(けい)線に重なり、次の行を侵している。

筆者が目にしたのは手紙の写しだが、文面を追わずとも書き手が広量な器の持ち主であることは分かる。文字は人なり…。

一部を抜き出してみる。

「日本の選士には誰一人として彼れ(ヘーシング)に対抗の出来る人なし」「選士、コーチ陣、うおう、さおうするのみ」「何故に…対抗研究をしておかざりしかを痛恨するのみ」

牛島辰熊という柔道家が、門下生に宛てた手紙である。

牛島は明治37年、熊本市に生まれた。15歳で柔術の扱心流江口道場に学び、柔道の腕も上げていく。大正14年から昭和2年にかけての明治神宮柔道選手権を3連覇し、「九州の麒麟児(きりんじ)」「鬼の牛島」と呼ばれた。後に「鬼」の異名を受け継ぎ、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」とうたわれる木村政彦は、牛島の磨いた珠玉というべき愛(まな)弟子である。

文面にある「ヘーシング」とは、同39年の東京五輪で無差別級の頂点に立ったアントン・ヘーシンク(オランダ)のこと。その前年、天理大学がヘーシンクを迎え入れた合宿で日本の若手が手もなくひねられる光景に、還暦間近の牛島が嘆きの筆を走らせたものだ。

師弟の問答

「今日に到つては、日本柔道界革新のため、彼れが優勝やむなしか」

後段に記した一文は、日本柔道界の暗いあすを気味の悪いほど克明に言い当てている。

およそ均整に遠い大小の文字は、落日を前にしたお家芸への嘆き、呻吟(しんぎん)、咆哮(ほうこう)など、千々に乱れる胸中を伝え、読み手を飽きさせない。日本柔道界への熱烈な愛情が、筆をとがらせたこともよく分かる。

「この手紙を(2度目の)東京五輪の前にお見せしたかった。日本柔道に奮起を促す、いい話題になると思ったので」

牛島のご遺族から写しを受け取った小山泰文さん(75)は、筆者にこう語った。

小山さんは国士舘大学柔道部の元監督だ。自身が柔道部員だった昭和40年代前半、牛島は国士舘大の師範を務めていた。当時、牛島の足音を聞くだけで震え上がっていたが、卒業して学生を率いる立場になり、謦咳(けいがい)に接する思いで教えを仰いだという。世評の「鬼」はその人の一断面でしかなかった。

同47年、それまで弱小校に過ぎなかった国士舘大が全日本学生優勝大会で準優勝し、小山さんは牛島の元を訪ねた。

「先生の教えのおかげです。『師の吐く息は弟子の吸う息、弟子の吐く息は師の吸う息』だと思い至りました」

師の薫陶に対する最大級の感謝を伝えたつもりが、腕組みした牛島は、「うーん」とうなったきり黙り込んだ。何がまずかったのか。全身に冷や汗をかき退散した小山さんは、長く思案に暮れた。答えが出るのに、ひと月ほどかかったという。再び牛島を訪ね、詫(わ)びた。

「学生あってこその教師でした。『弟子の吐く息は師の吸う息』。こちらが先でなければなりません」。牛島は眉を開き、「万物に通じる言葉だね」と破顔一笑したという。

「鬼」と「花」

以後の十数年、牛島が81歳で他界するまで師弟の交わりを続けた小山さんは、いくつかの形見も譲り受けている。牛島の筆になる「留魂魄(こんぱくとどまる)」の扁額(へんがく)はその一つ。裂帛(れっぱく)の気迫もろとも筆を運んだ「鬼」の字が2つ、額の中でこちらをにらんでいる。

ほかにも牛島が国士舘大で行った講義録など、多くの資料を見せていただいた。機会を改め、紙上でお目にかけたいと思っている。中でも「大事にしている」という小さな紙片が印象深い。病床の牛島に「一言、教えを」と請うたところ、沈思の末に書き留めたものだ。

「ワザ、それは努力の上に開く花です。(中略)練習とめい黙のうちにじつと自分を見つめるとき、ワザの開眼を感じます。人生も然(しか)り、修養努力あるのみ」

小さくまとまった文字の列、推敲(すいこう)の跡をうかがわせる文章の主が、罫線無用の手紙と同じ書き手とは思えなかった。(もりた けいし)

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