モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

(141)被害者救済新法に投じられた一石

自民党の細野豪志衆院議員(川口良介撮影)
自民党の細野豪志衆院議員(川口良介撮影)

復讐物語に酔う日本人

モンテーニュは第3巻第4章「気分の転換について」にこう記している。

《復讐(ふくしゅう)は甘美な感情である。それは我々の心に深くうえつけられた自然の感情である。わたしにはまったくその経験がないけれども、それがよくわかる》

だからといって、彼は復讐心に突き動かされるのをよしとするわけではない。復讐心にとらわれた若殿(のちのアンリ4世)に、敬虔(けいけん)なキリスト教徒のように「右の頰を打たれたら左の頰を差し出しなさい」などとは言わず、名誉と衆望と同情を得るには、寛恕(かんじょ)と慈悲こそが大切だと言って説得したのである。人間は実利によってこそ、それまで固執してきた考え方を捨てることができる。まさに実践的で人間通のモンテーニュらしい説得術といえるだろう。道徳にだけ訴えても、人間はなかなか変わらないのだ。

ところで、いま多くの日本人がある男の復讐行為に酔っている。「忠臣蔵」や「曽我物」がもてはやされるのは、復讐について甘美な感情をもって受け止める傾向がいっそう強いからだろう。その背景には武士道があるのかもしれない。

ある男とは、言うまでもなく街頭演説中の安倍晋三元首相を射殺した男のことである。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の熱心な信者だった母が巨額の献金を繰り返したために家庭が壊され、自身の人生も大きく狂わされたと感じた男は、復讐のため安倍元首相を標的にしたとされる。

男は暗殺に「政治的意図はない」と述べ、あくまでも個人的な復讐であると主張しているが、即断はできない。復讐物語に酔いやすい日本人ならば、男を「犠牲者」「英雄」と持ち上げる者も多数出てくるはずであり、その声はツイッターや交流サイト(SNS)を通じて拡散するに違いないと考え、今回のテロ行為を教唆した策士がいるのかもしれない。もちろん、私の妄想にすぎないが…。

現実に、マスコミの連日の報道によって男の家庭の惨状と人生が明らかになり、同時に信者の家庭に生まれた人々、いわゆる宗教2世たちが、次々と苦悩の声を上げるにつれて、男を「犠牲者」や「英雄」と持ち上げる声が生まれ、これまで旧統一教会に何の関心も示さなかった国民をも巻き込んで、「打倒!旧統一教会」のシュプレヒコールすら聞こえてきそうな事態となった。さらには、深浅さまざまだが、教会と関係のあった議員を多数抱える自民党に対する不信感を募らせていった。私自身もそのひとりである。

こうした状況のなかで岸田文雄首相は8日、被害者救済に向けた新法について「政府として、今国会を視野にできる限り早く提出すべく最大限の努力を行う」と表明し、政府は18日に新法の概要を与野党6党に示した。

テロを端緒に制定される新法

もちろん、被害者救済は喫緊の課題であり、実効性のある内容とすべきだ。ただ、しばし立ち止まって考えたい。格好のテキストがある。文章、写真、イラスト、音楽、映像などの作品を配信するウェブサイト「note」に、自民党の細野豪志衆院議員が9月28日に投稿した「私がカルト被害防止・救済法案に賛成できない理由」と題されたものだ。

「テロリズムで旧統一教会に注目が集まるのは男の思惑通りだろう。対照的にテロリズムで命を落とした安倍晋三元総理が旧統一教会との関係で批判に晒される状況は控えめに言って倒錯している」との認識を持つ細野氏は、「男は統一教会によって生活危機に陥ったとされているが、政治家の決断によって生活の危機に陥る国民もいる。政治家の決断に対する評価は議会政治や選挙を通じて受けるべきだが、今回の事件はこの国でそうでない方法で意思を表明できることを世に知らしめたのだ」と記し、次のように問う。

「熟慮を要するのは、テロ行為(テロリストの思惑)を端緒として旧統一教会に関する立法を行うことが国家として正しいかどうかの判断だ」

ちょうど90年前、海軍青年将校らが犬養毅首相を殺害したクーデター未遂事件「五・一五事件」が起きた。この事件が議会制民主主義を崩壊させる端緒となったことは、多くの国民が知っているところだろう。今回の新法は、被害者救済という、誰も文句のつけられない大義名分はあるものの、だからといって…。まずは現行法で対処すべきではなかったか、という問いかけである。

新法制定は、テロリストの要求にこたえる結果になる、という細野氏の見立てについては、もちろん異論も多く、被害者救済に長年取り組んできた人々からは非難の声が上がった。紀藤正樹弁護士は8日、ツイッターにこんな投稿をしている。

「統一教会の被害に目をつむる細野さんの言動に驚く。重篤な被害を放置した側の政治家が『現行法で対応できることがやれなかったことは反省すべき』と現に生じた被害者の救済に汗かくでもなく他人事(ひとごと)のように言うのは無責任」

目の前の苦しんでいる被害者を一刻も早く救済したいというのは、弁護士として当然の感情だ。旧統一教会の問題に先頭に立って取り組んできた紀藤氏なら、なおさらだろう。ただ、メディアを筆頭に、国中が新法制定に前のめりになっているなかで、細野氏が投じた一石は、大きな波を起こすことはできなかったものの、とても貴重な一石だったと私は思う。

公教育でこそ宗教を学ばせよ

さて、今国会で新法が制定される予定だが、どんな法律を作ろうとも必ず抜け道はある。抜け道が明らかになり、屋上屋を架すように、さらに法律を作るというイタチごっこが起きないともかぎらない。人権を侵害するような「宗教」に網をかけることはもちろん必要だとは思うが、それ以上に大切なのは、公教育で広義の宗教教育(一般的な宗教の教義、儀式、習慣、概念、歴史、エピソードなどの教授)を行うことではなかろうか。宗教について日本人は、無垢(むく)かつ無知すぎると思う。

モンテーニュは第2巻第12章「レーモン・スボン弁護」で、こんな逸話を紹介している。

《哲学者アンティステネスはオルフェウスの秘義を授けられるとき、僧が彼に、「この宗旨に身を捧(ささ)げるものは、死後において永遠無比の楽しみを受けるに違いない」と言うと、「ではなぜあなた自ら死なないのか」と言った》

宗教をめぐって、こんなエピソードを紹介する授業があってもよいと思うのだが、いかがだろうか。

※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)による。

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