中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された邪馬台国の女王・卑弥呼の使者が魏から授けられた「銅鏡」との説がある「三角縁神獣鏡」が7面まとまって出土し、注目された古墳時代初め(3世紀後半)の前方後方墳「西求女塚(にしもとめづか)古墳」(神戸市灘区)。その石室を彩っていた赤色は、2種類の赤色顔料を塗り重ねるという、他に例のない塗装だったことが分かっている。その塗装が施された石室の天井石が、神戸市西区の神戸市埋蔵文化財センターで開催中の企画展「元素でたどる考古学」で展示され、改めて注目されている。多量の顔料を必要とする重ね塗りに、どんな意味があったのか。貴重な多数の銅鏡を持った被葬者とは。古墳時代の幕開けのころに出現した西求女塚古墳の謎は、なお深い。
地震で崩落
同古墳は全長約98メートル、後方部が長さ約52メートルで前方部が約46メートル。埋葬施設としては、後方部の墳丘に竪穴式石室が確認された。長方形に掘った穴の底に礫(れき、小石)などを敷いて棺を置き、その四方に割石を積み上げて壁にし、上に天井石をのせてから、土で覆うというのが一般的だが、発掘調査では、近畿一円に大被害を及ぼした文禄5(1596)年の慶長伏見地震による地滑りで、石材が崩れ落ちていたことが判明した。それを復元すると、石室は全長約5・6メートル、幅約1メートルの長方形で、南小口から約75センチのところで板石により、残存してはいなかったものの棺を安置した主室と、副葬品を納めた副室とに仕切られていた。内壁は板石を積み上げて、造られており、高さは約80センチ。上部に天井石が置かれていた。
石室の内側は天井部分も含めて、すべて赤色の顔料が塗布されていた。主室、副室とも床面に敷かれた礫にも、赤色顔料が塗布されていた。この赤色の塗装については、ベンガラ(酸化鉄由来の赤色顔料)の層の上に、朱(水銀朱=硫化水銀由来の赤色顔料)の層があることが確認されており、石室構築時にベンガラを塗り、構築後のある時点で朱を、その上から塗布したとみられている。