論壇時評

12月号 追悼演説に思う「論壇」の範囲 文化部・磨井慎吾

衆院本会議で安倍晋三元首相の追悼演説を行った立憲民主党の野田佳彦元首相 =10月25日、国会・衆院本会議場(矢島康弘撮影)
衆院本会議で安倍晋三元首相の追悼演説を行った立憲民主党の野田佳彦元首相 =10月25日、国会・衆院本会議場(矢島康弘撮影)

久しぶりに、議会政治家らしい名演説を聞いた。

「私は、生前のあなたと、政治的な立場を同じくするものではありませんでした。しかしながら、私は、前任者として、あなたに内閣総理大臣のバトンを渡した当人であります」

10月25日の衆院本会議。立憲民主党の野田佳彦元首相が、7月に銃撃され死亡した自民党の安倍晋三元首相への追悼演説を行った。祖父と大叔父が元首相という名門政治家一族出身の故人と、自衛隊下士官の息子で県議からたたき上げた野田は、出自も党派も対照的だ。だが「手ごわい論敵」で「仇(かたき)のような政敵」の関係でありながら、同時に議会人として、また国家の重責を担った経験を持つ者同士として、そこには確かな敬意が存在した。だから野田は、安倍と厳しく対峙(たいじ)しつつも「立場の違いを乗り越え、どこかに一致点を見いだせるのではないか」との期待を抱いていたという。

自分も相手も同じ言論の場を構成するプレーヤー同士との認識があれば、意見は違えど最低限の敬意は生まれる。いわゆる「論壇」の内と外、公共的な議論が成立するかどうかを分けるラインも、そのあたりにあるのではないか。追悼演説を聞きながら、「論客」たちが観衆の瞬間的な反応を目当てに言い捨ての罵倒芸を競う交流サイト(SNS)の状況も想起され、そんなことを考えた。

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『世界』の松元雅和「ウクライナ戦争と平和主義のゆくえ」は、『平和主義とは何か』(中公新書)の著書がある政治哲学者が、「今回のウクライナ戦争が、戦後憲法が掲げる平和主義の問い直しに向けてひとつの試金石になっている」ことを認めて、戦後日本的な平和主義の今後を検討する。

その結果、浮かんできたのは「非武装と中立を掲げてきた日本型平和主義の理念的是非があらためて問われる」現状であり、「非武装中立論と一蓮托生(いちれんたくしょう)であるかぎり、平和主義をめぐる理念と現実の乖離(かいり)はますます広がるばかりだろう」という、おそらく同誌の年来の読者にはあまり歓迎されないであろう結論だった。そのうえで、非暴力の訴えという平和主義の根源にある理念を生かすために、「武力行使に踏み込む政策判断に対して再考を迫る警戒的機能」という現実に即した役割を見いだす。

平和主義サイドのこうした再検討は、たとえば保守系誌と目される『Voice』での国際政治学者師弟による対談「『一国平和主義』で国は守れない」(村田晃嗣・千々和泰明)で交わされている議論と、実のところそこまで懸隔のあるものでないように思える。

松元が指摘する日本型平和主義の行き詰まりも、結局はそれが日本および周辺地域の平和に貢献しないとみなされるようになったからだろう。「日本と地域の安全は不可分です。一国平和主義が相手国につけ入る隙を与える危険性も考えるべきです」(千々和)。村田も「防衛費の増額自体には賛成」であるが、「反撃能力の保有やニュークリアシェアリング(核共有)の議論にしても、問題提起した安倍晋三元総理の『言霊(ことだま)』だけが流布してしまっている」現状を懸念し、保守派の留飲を下げるためではない「真に現実的な安全保障政策」を求める立場だ。現実的な安全保障論と、場合によっては武力行使を否定しない平和主義は、一般に「右」「左」の対立軸に置かれがちで、たしかに集団的自衛権の行使条件など各論をめぐっては鋭く対立するかもしれないが、総論的な認識では共通点も多い。少なくとも、両者は議論の前提を共有している。

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新潮社の会員制情報サイト『フォーサイト』の「一般のロシア国民に『戦争の責任』はあるのか―EUによるビザ発給制限の背景と余波」(鶴岡路人)は、9月の部分動員によって大量のロシア人男性が周辺国に脱出したことなどを受け、欧州諸国で「この戦争が『プーチンの戦争』なのか『ロシアの戦争』なのかという問い」が提起されていることを紹介する。

従来、「悪いのは指導者で一般ロシア国民は被害者」との政治的含意を持たせた「プーチンの戦争」という呼称が用いられてきたが、現実としてこれだけの惨禍を経た後もプーチン政権への支持は期待されたほど下がらず、戦争がロシアの民意に反しているとは言い難い。そこで浮上するのが、「ウクライナ侵攻におけるロシアの行為が、プーチンに特殊な性質のものなのか、第二次世界大戦などでも繰り返された『ロシア的』なものなのか」という厄介な問いだ。

ロシア研究者を招いた『ゲンロン13』の座談会「帝国と国民国家のはざまで」(乗松亨平・平松潤奈・松下隆志・東浩紀・上田洋子)の焦点も、まさにその部分にある。今回の侵攻でもみられるように、ロシアの論理の核心は「ロシアの一体性」なのだが、問題は一体不可分のロシアとみなす範囲が19世紀の帝国の版図に基づくあまりに巨大なものであることだ。だから「ふつうの国民国家であれば問題なかったはずの主張が、帝国に適用されてしまったからおかしくなってしまった」(東)という、中国にも通じるグロテスクな侵略性が生じてしまう。

そしてロシアの場合、冷戦の敗者であるがゆえに、第二次大戦の戦勝の記憶に異様に執着するというプライドの問題が加わる。だが、平松が指摘するように「そのプライドは表面的なもので、いまでは力でも実際は負けており屈辱感に満ちているので、それを晴らすのだ、とこのような戦争を引き起こして、ますます悪い選択をしてしまいます」。よって処方箋としては「彼らの表向きの大国幻想を解除する必要がある」(平松)、「現状では、ロシアの徹底した敗北以外に解決の道筋は見えない」(乗松)ということになる。だが果たしてロシアの「戦後日本」化は可能なのか。その是非はどうなのか。文化的現象の面から今回の戦争を読み解く、充実の座談会だった。(敬称略)

=次回は12月22日掲載予定

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