《実業団のヤンマーディーゼルサッカー部(後のセレッソ大阪)に入団した当時はJリーグ開幕の直前。プロ契約とアマチュア契約のどちらかを選ぶことができ、自身はプロ契約を選択した。4人の同期のうち、2人はプロ、2人はアマチュアだった》
最初に話があったときは、まだプロのリーグがスタートしていませんでしたからね。「プロ契約とアマチュア契約のどちらを選択しますか」と尋ねられました。アマチュアだったら、練習のない時間は仕事をするわけです。練習して仕事にいくか、仕事をして練習するか。プロは仕事がなく、本当にプロだけの契約。どちらにするか、選んでよかったんです。自分は中途半端な形よりも、プロとしてスタートして勝負したい気持ちが強かったので、プロ契約にしたんです。
同期の2人はアマチュア契約でしたが、振り返ってみたら、給料はまったく一緒なんです。プロになっても、仕事をやっても一緒。でも、よくよく考えたら、プロってなんの保証もないじゃないですか。(アマチュア契約で)社員として就職してたら、けがをしてしまっても、社員として生き残れるわけです。半分仕事もしながら、選手もして、保証があって…。一方で、こっちはプロリーグもスタートしていないのにプロでスタートして、サラリーが良ければいいけど、同じ条件で…。今考えてみると、よくそれでプロ契約したなと思いますが、それぐらい純粋に、自分は勝負したかったんですね。
《プロサッカー選手として新たな人生を歩み始めたが、生活環境も劇的に変化したわけではなかった》
そういう思いでスタートしたんですけど、よくよく振り返ってみると、本当のプロかっていうと、プロの生活はできていなかった。食事面もそうです。兵庫県尼崎市にあった寮も(高校時代と同じように)カーテンで区切られたような個室でした。入り口は1つで、入ったら両方がカーテンで区切られて2部屋になっている。そこに先輩と若手がペアで入るんです。門限も決まっていました。そんな状況でプロとしてスタートして、試合も、土のグラウンドでした。お客さんも、身内が来て応援していると、すぐに見つけられるぐらいしか入っていない。そんな状況です。なので、プロ意識といっても、実はあんまりなかったですね。
《ただ、プロなので契約更改もしなければならなかった。当時は代理人制度などが整備されておらず、交渉には自らが出席した。助けてくれたのは、少年時代を過ごした大河(おおこう)フットボールクラブの創設者で恩師の浜本敏勝監督だった》
最初に契約するときには、浜本先生に、自分がプロとして勝負するという話はさせてもらいました。契約のところは、自分自身がよく分かっていませんでした。1年ごとに契約更改交渉があるんですよ。話をするときには、(ヤンマー側から)大人の人が2、3人出席されて、こっちは自分1人です。10代のそんな若い子が交渉といっても、なにを言われても「はい」としか答えられないですよね。だから毎回、交渉するときには事前に浜本先生と相談しておいて、契約の場で話を聞いて、「ちょっと一度、先生と相談します」みたいな受け答えをするわけです。
今でいうエージェントの仕事を浜本先生にしてもらいました。浜本先生には「お前からはエージェントの代金を一銭ももらっていない」と言われましたがね。いろんな意見を聞きながら、自分は「もうちょっと頑張りますんで、ぜひ評価してください」とか言っていましたね。(聞き手 北川信行)