ブラッド・ピットが見た奇想天外な夢

ピットはソーシャルなシチュエーション、典型的にはパーティーのような場で、出会った人たちの顔を覚えるのがおおいに苦手だ。そして、この問題に関して本人的になにより嫌なのは、自分が他人を寄せつけたがらないタイプの、自己中心的なやつだと思われること。実際には逆で、彼は出会った人の顔をできるだけ覚えたいと思っている。でも、それができない。正式な診察を受けたことはないが、ピットは自分が相貌失認の障害をもっているのではないかと疑っている。相貌失認。またの名を顔盲。他人の顔を覚えられない。2度目に会っても、誰なのか見分けがつかない。

じつは私の夫も同じ問題で困っていると告げたところ、ピットの様子が豹変した。「誰もわかってくれないんだよ!」と叫ぶ。「ほんとは僕だって、フツーに気楽に出会いたいのに」。バチバチのアイ・コンタクト。この時点で私は、ブラッド・ピットがよそよそしいやつでも抑制がちなタイプでもないということがわかった。あらゆる基準に照らして、彼は親しみのもてるチャーミングな人で、だからこそいっしょに過ごす時間は別次元級に素晴らしいのだが、しかし話はそれだけでは終わらない。この人は、自分と相手のあいだに意味深い関係を築き上げることにたいして、ものすごい熱意をもっている。自分とは何者かという実存的な問いへの答えを見つけることにたいしても。そのうえで、相手のライフ・ストーリーにしっかり耳を傾けたいと心底思っている。パーティーで会ってもフンとそっぽを向くようなのとは正反対のタイプだ。

シャツの袖の下だから見えないが、彼の右の二の腕にはタトゥーが入っている。ルーミーの詩の一節で、いわく「善悪を超えた世界というものがあるのです。そこでお会いしましょう」。なんともロマンティック。と同時に、これは孤独さの表現でもあるような。「自分の人生において、僕はずっと、すごく孤独を感じてきましたよ」とピットはいう。「子どもの頃も、この家に住むようになってからも。友人や家族のおかげで状況は変わったけど、それまでが長かった。リルケだったかアインシュタインだったか忘れたけど、人間の成長とか成熟は、逆説を自分のなかに抱え込んで、矛盾とともに生きられるようになることなんだって」

「ところで是非訊きたいんだけど……」と、今度はこっちへお鉢がまわってきた。「僕らはいま、いったいなんで、こんなところにこうしているんだろう? 自分という器のなかに閉じ込められて。そんなことを考えたこと、あるでしょう?」

答えのかわりに、私はルーミーの別の詩の一節を暗唱した。「私は自分を、どこかよその大陸から飛んできて鳥籠のなかにいる鳥のような存在だと感じています。私はここへ自分の意思で入ったわけではありませんし、自分の意思でここから出ていくこともできません。私を自分の家へ帰すというなら、誰であれ、私をここへ閉じ込めた人がそうしなければならないのです」

こんな状況で13世紀のペルシャの詩を暗唱するのもどうかとは思ったが、でもトチらずにいえた。たまたまラッキーだっただけだろうけれど、私の「鳥籠」はそんなに嫌なものではない。「でもなぜか、音楽なんかは少々刺激が強すぎるのです」

「え?それって、どういうことかな」とピット。「僕にとっては音楽って、自分のなかを喜びで満たしてくれるなにかなんだ。もっとも、そういうのがわかってきたのは最近のことだけど。長いことあっちへいったりこっちへきたり流されるみたいにして生きてきてわかったのは、それじゃあほんとの喜びとか満足は得られないってこと。自分には美しい部分も醜い部分もあって、それを全部ひっくるめて自分なんだと認められるようになって変わったと思う。それまではずっと、軽度の鬱病みたいな人生だったけどね」

「もしかして、私は心が壊れちゃってるのかもしれません」と私は彼にいった。「なにかを感じて心のスイッチがオンになると、つらいんです」

「でも、そういうのって、誰にでもあることだから」と、なんだか優しいおじさんみたいな声で。こういう声の人と長距離列車かなにかでいっしょになったら、私はきっと、私のいいたいことを全部伝えたくなるだろう。そして彼は彼で、何時間でもちゃんと聴いてくれる。そういう、優しいおじさん。あるいは賢者みたいな。

自分は常に人生の意味について考えているとピットはいった。そして、そのことを説明するのにリルケの詩を引き合いに出してきた。「彼はアポロ胸像について書いて、そこから職人気質の話になって、と思ったら突然、なんの脈絡もなしに『あなたはあなたの人生を変えねばなりません』がくるわけ。知ってる?あ、知ってる。よかった」

グラスを手にもちながら、黙ってこちらへ目を向けている。でも彼の視線は私を素通りしているようだ。考えるのに夢中で。

と突然、iPhoneの画面をスクロールし始めた。アポロ像からの流れでチャールズ・レイに思いがいたり、それで彼の作品の写真を探している。チャールズ・レイは、現役ではもっとも強い影響力をもっているロサンゼルス在住の彫刻家で、なんと、われわれ2人の共通の知り合いだということが判明した。ピットは最近、パリで開催されたレイ作品の展覧会へいった。iPhoneで画像を見せてくれながらいわく、「このキリスト像は紙でできているんだ。この光の当たりかた。いったいどうやったらこんなふうに作れるのかって思う。あと、これって壁に掛かってはいないし十字架を背負ってもいないのに、すごく磔刑されている感があるんだよ。浮いているのに。十字架なんてないのに。どうやって浮いているかわかる?あとほら、この壁に落ちている影」

いまピットが話題にしている紙のキリスト像は、17世紀のイタリアの彫刻家、アレッサンドロ・アルガルディのキリスト像に範をとったものだ。濡らした製紙用パルプを型に押し込んで成形したので、作者本人は彫刻よりもドローイングに近いものだとみなしている。後日私に教えてくれたところによると、彼はこの作品で、紙を使ってどこまでやれるか、その限界に挑戦したという。形状を保っていられるギリギリの、つまり最大のスケールで作る。「それで上手くいったら、神に近づけるんじゃないかと思ったんです」

なにかを作ることを通じて聖なる体験をしたいと思っているのはピットもレイと同様だが、ただし、ピットはアーティストを自称することに抵抗がある。また、作陶は彼にとってアートではない。「1人で音もたてずにやれる、まさに触覚のスポーツ」だそうで、私にいわせれば、この発言はオザーク出身者の謙虚さが発露した一例だ。普段の暮らしぶりや仕事ぶり、あるいはじっと黙ってなにかを考えたり落ち込んだり立ち直ったりするときの様子からして、彼はどう見てもアーティストだ。傍目にそうであるだけでなく、彼自身、常に考えている。アーティストであるとはどういうことかを。「アートって、なんだかよくわからないものなんだよ。でも、アートのせいで鳥肌になったり、背中の毛がワッと逆立ったりもするわけで。あるいは思わず涙ぐんだりとか。どうしてそうなるかというと、作品を介して作者と自分のあいだで話が通じるからなんだ。『あ、そういうことなんだね』が共有できる。で、自分は孤独じゃないってことがわかって嬉しくなる」

悪夢の正体とは?

インタビューの数日後、ピットが電子メールを送ってきた。6時間にわたる口腔外科手術を受けたあとに書いたものだそうで、内容は3つのカテゴリー、すなわち「全体総まとめ」と「紛らわしい部分をハッキリと」と「最後にもう一度」に分けられている。人間どうしのコミュニケーションについて彼が学んだことについて、友達に向かってわけを話すように書いてくれてある。「ラディカル・アカウンタビリティ」の重要さが強調されていて、いわく、自ら進んで徹底的に言葉を尽くして相手にわかってもらうこと。それなしに、健全なる自己の確立は望めない。

なんだこれ。ブラッド・ピットはどうかしてしまったのか。その方面の専門家からアドバイスを受けてから原稿にしないと明らかにダメなケースかも。いや、でも、ちょっと待て。

その日、ピットからの電子メールを読む前に、私は夫からあることを強く指摘されていた。まさにアカウンタビリティ関係で、彼いわく、こっちが直球の答えを返しているのに私はそれをまともに受け止めない。はぐらかしてしまう。耳が痛いが、そのとおり。

インタビューで訊いた、悪夢の話。その夢の意味について考えを巡らせ、夢のなかで「なんでだ?」と問いかけて、悪夢をコントロール下におくことに成功した話。最初に聞いたときは、どういうことなのかわからなかった。いまならわかる。彼は、自分の人生のもっともややこしい真実を掘り起こさないではいられなかったのだ。で、さっそく電子メールを。悪夢の意味は、なんだったんですか。数日して、返事がきた。

「僕の解釈では、あの刺される夢の意味は、表面的には恐れや不安や孤独の表れです。でもその下には別の意味があって、じつはこちらのほうがずっと重要なんだけど、子どもの頃の抑圧体験。怒りたいとき素直に怒ることができなかったり、無理して周囲に自分を合わせなきゃいけないと思っていたりしたことへの不満が姿を変えて夢に出てきていたんだと。なにより、いいたいこともロクにいえずに育ったせいでしょうね」

悪夢のなかへ戻っていき、子ども時代のつらかった体験を掘り起こし、正体を突き止める。勇気がないとできないことだし、勇気のほかにスキルもないといけない。なにしろ、殺されるほうと殺すほうの両方の役を同時に1人でこなさないとドラマが成立しないから。でも、そういうことをやるのがピットは得意だ。

暖炉の前で2人して語り合ったとき、ピットはこんなことをいっていた。「僕は人殺し。僕は愛の人。思いやりはたっぷりあるけど、サイテーの嫌な奴にもなれる」。夢のなかでなら、誰だって、どんな人物にでもなることができる。どこへでもいける。主演も相手役もどっちも自分。監督も自分。観客も自分だけ。なんでも思いどおり。本当にそうだろうか。自分自身のことをちゃんとわかりたいなら、見た夢のストーリーを書き残しておかないと。

WORDS BY OTTESSA MOSHFEGH

STYLED BY JON TIETZ

TRANSLATION BY KEITA MORI

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